前シリーズの 木村流『蘭学事始め』 はこちらから!

 木村流『学問のすゝめ』(5) New  木村 勝紀  2013.11.14
 木村流『学問のすゝめ』(4)  木村 勝紀  2013.11.02
 木村流『学問のすゝめ』(3)  木村 勝紀  2013.10.15
 木村流『学問のすゝめ』(2)  木村 勝紀  2013.09.30
 木村流『学問のすゝめ』(1)  木村 勝紀  2013.09.23


 木村流 『学問のすゝめ』 講読シリーズ (5)
木村 勝紀
2013年11月14日

 第4編(明治7年1月)です。この第4編「学者の職分を論ず」は官尊民卑の打破を目的として、民間の在野学者の使命を力説しています。学者の在野精神が旺盛でなければ、一国の独立も、文明の進歩もあり得ない、という福沢諭吉の信念がひしひしと伝わってきます。この第4編は、福沢諭吉が当時の一流学者の結社であった明六社【めいろくしゃ】(木村注1)の会合の席で行った談話の原稿ではないかといわれます。明六社の会員は、福沢諭吉以外のほとんどが官僚学者であったといいますから、席上相当多くの異論が出たようです。この第4編には、最後に「附録」があって、その問答の模様が記されています。それらの官僚学者たちの発言は、福沢諭吉の烈しい気魄の前にはたじたじといった雰囲気が伝わります。

注1:明六社【めいろくしゃ】
明治6年(1873)、森有礼らによって組織された最初の近代的な学会。啓蒙活動を目的とし、社員には、福沢諭吉、西周、津田真道、神田孝平、加藤弘之ら主として旧幕府の開成所出身の洋学者を集めており、機関紙『明六雑誌』を発行した。1875年讒謗律【ざんぼうりつ】・新聞紙条例が発布されると、雑誌は廃刊し、社は明六会となり、帝国学士院の先駆となった。  出典:『日本史事典』

それでは第4編の本文の紹介に移ります。

学者の職分を論ず(明治7年1月)

−近ごろ、内々世間の学者たちの話を聞いていると、「今後の日本の盛衰は、人知でたやすく判断はできないが、結局国家の独立を失うような心配はなかろうか、それとも現状の線に添って次第に進歩するならば、必ず日本はりっぱな文明国の段階に達しうるだろうか」と言って、わが国の前途を問題とする者がある。そうかと思うと「日本が独立を全うできるかどうかは、今から二、三十年もたってみなければ、はっきり分からぬだろう」といって、懐疑的な態度をとる者もある。さらに日本を軽蔑しきった外国人の説によると、「とても日本の独立はおぼつかない」といって、その前途を否定する者すらある。(中略)かりにも日本に生まれて、日本人たる以上は、この日本独立の問題を心配せずにはおれぬであろう。われわれは、等しく日本に生まれて、日本国民の名を有する者である。すでにその名を有する以上は、各自わが責任を自覚して、その責任を尽くさねばならぬ。もちろん、政治の範囲内に属する事柄を処理するのは政府の責任だが、世間の事業には、必ずしも政府が関係するのを適当とせぬものも多い。国全体が完備するには、人民の力と政治の力とが並び行われてこそ、はじめてその成功が期待されるのである。国民は国民としての責任を尽くし、政府は政府としての義務を果たして、互いの協力によって、日本の独立を全うしなければならぬ。−

かつて、アメリカ第35代大統領のJ.F.ケネディが就任演説の中で国民に向かって述べました。「国に何をしてもらうかではなく、国のために何をし得るか」。一脈通じるものがありますね。国力とは民力が基盤であることを福沢諭吉は熱く語っています。それでは続けます。

−(中略)現在、日本の国情を観察して、外国に及ばぬ点をあげて見れば、第一に学問技術、第二に経済、第三に法律がある。世の文明はもっぱらこの三つの条件と結びついているのだ。この三拍子が揃わなければ、国の独立はおぼつかない。それは、識者の意見を聞くまでもなく、分かりきったことである。ところが、今わが国では、この三つの中の一つも、まだ軌道に乗って格好のついたものはない。そもそも明治の新政府成立以来、政府の役人が文明の推進に努力しなかったわけではない。また、彼らの才能力量が乏しかったわけでもない。が、それにもかかわらず、文明の進路に当たって、どうにもならぬ障害があって、政府の理想通りに運ばぬ事情が多かった。その原因は何かといえば、人民の無知文盲がそれである。(中略)政府はやはり昔ながらの専制政府であり、人民は昔ながらの無気力な愚民たるにとどまっている。たまには、幾らか文明の進歩した形跡はあるにしても、政府がそのために払った労力や費用に比べると、成功の注目に値するものが少ない。それは何ゆえかと言えば、一国の文明は、(やはり人民の自発的活動と民間識者による啓蒙とが大切なので)、ただ政府の努力だけでは推進できぬことが原因である。
 (中略)現在、日本の政府には相当の人材が少なくない。個人として意見を聞き、その行いを見れば、大概は見識もあり、度量も広いひとかどの人物である。われわれの目から見て、批判を加える余地がないばかりか、その言行には敬慕に値するものさえある。また一方、人民の側を見ても、平民だからとて、全部が無気力な愚民ばかりではない。万人に一人ぐらいは、まれに潔白で正直な人間もいないではない。ところが、そのひとかどの人物たちが、いったん政府に集まり、政治を行う段になると、その政治の実績は、われわれから見て感心できぬ点がすこぶる多い。他方、かの正直な頼もしいはずの人民も、政府に接する場合は、たちまちふだんの人柄が変わって、うそいつわりで役人をごまかし、少しも恥じるけはいがない。(中略)そこで私は、「世の文明を推進するには、政府の力に頼らせるだけでは駄目だ」と断言したい。これまで述べてきたところから考えても、現在、わが国の文明を進めるのは、まず国民の心にしみこんでいる官尊民卑の根性を根絶せねばならぬ。(中略)今、世間の洋学者連中は、大抵皆政府に仕えている。民間で独立の仕事をしている者は、ほとんど数えるほどしかない。思うに、多くの洋学者が政府に仕えているのは、ただ収入が多いのを望むためばかりではあるまい。昔ながらの日本の教育が身に沁みついていて、むやみと政府を頼みにし、政府の力でなければ何事もできぬように思いこんでいるのだ。お上の御威光にすがって、わが多年の目的を遂げようとするにほかならない。世間有名な大学者先生でも、往々この程度の見識しかないのだ。その態度はさもしいように思われるが、その了見はあながち深くとがめることもできまい。それは本人の不了見というより、やはり古来の社会の因習にとらわれて、自覚が足らないのである。
 (中略)これまで私の述べてきた議論が間違いでないならば、わが国の文明を進めて日本の独立を保つには、政府の力だけでは駄目である。今日の洋学者もあてにならない。これはどうしても不肖福沢諭吉らの使命である。まずみずから先に立って仕事に着手し、一般人民に模範を垂れなければならぬ。また、世の洋学者連のためにも先駆者となって、同志の人々の行くべき道を示さねばならぬ。(中略)口先で百回お説教するより、一回実行して見せる方がはるかに有力であろう。今まずみずから民間独立の行き方を示して、「世間の事業は、政府ばかりの任務ではない。学者は学者で民間において活動すべきだ。町人は町人で事業せねばならぬ。政府も日本の政府ならば、人民も日本の人民である。しからば人民は、政府を恐れず、近づくべきであり、政府を疑わず、親しむべきだ」という独立自尊と官民一体の精神を知らしめたいのだ。そうすれば、人民も次第に行くべき道を悟り、官尊民卑の旧風もだんだん消滅して、はじめて真の日本国民らしい国民が出来あがるであろう。それでこそ国民は、政府の言いなりになる玩具ではなく、政府の有効な刺激剤となる。学術・経済・法律なども、自然と民衆自身のものとなるであろう。これによって、国民の力と政府の力とがバランスを保ち、日本の独立が維持できるのである。(後略)−

福沢諭吉の愛国心が胸にせまりますね。「独立自尊と官民一体の精神を知らしめたいのだ」と力説しています。それでは最後に附録の章に移ります。この講読シリーズ(5)の冒頭に述べましたように、明六社という洋学者の集まりの中での講演原稿だったとすれば、異論反論があって当然です。この附録は、講演後に福沢諭吉自身が、その模様を附録として記録に残したものといえます。

附録

−以上の意見を(某所で)発表したところ、(席上)二、三の質問者が出た。それに返答しておいたから、その問答を巻末に記しておこうと思う。その一つの質問は、「事業をするには、やはり権力のある政府を利用するのが、なにより有効ではないか」というのである。それに対する私の返事はこうだ。文明を進めるには、政府の力に頼るだけでは駄目である。このことは、すでに本文中で弁じた通りで、分かりきったことだろう。その上、政府の事業は、過去数年経験を重ねてきたが、いっこう効果が挙がっていない。もちろん民間でも、はたして成功するかどうかは分からないが、理論上はっきりした見込みがあるならば、試してみなければならぬ。試してもみずに、はじめから成功の可能性に尻込みするのは、勇気ある人間とはいえまい。
 次に、第二の質問はこうである。「政府には人材が少ない。もしも有能な人物が抜け出してしまうと、政府の仕事が差支えるのではないか」というのだ。だが、決してそんなことはない。今の政府は、むしろ役人が多すぎて困るくらいだ。行政を簡素化して、人員を制限すれば、政府の仕事はかえって整頓し、余った人員は、民間の仕事に役立つに違いない。一石二鳥になるわけだ。無理に政府の仕事を増やして、せっかく有能な人間を採用しながら、無駄な仕事をさせておくのは、つまらぬ話といわねばならない。しかも、これらの人物が政府を離れたからとて、外国に移住してしまうわけではなし、やはり日本に居て、日本の仕事をするのだから、なにも心配することはあるまい。
 さらに第三の質問者はこう言う。「もしも政府以外に、民間人の勢力が強固になると、自然それが第二の政府のようになって、本来の政府の権力を侵すようになりはしまいか」と。そんな意見は、全くわからずやの愚論だと答えるほかない。民間の人物も、政府の役人も、等しく日本人ではないか。ただその働く職場が違うにすぎない。実際は、互いに助け合って、全国の利益をはかるのだから、敵同士ではなく、純然たる協力関係にあるわけだ。万一にもこの民間人が、政府の法を犯すような所業があれば、政府は断固これを処罰すればよろしい。少しも恐れることはなかろう。
 最後に第四の質問だが、「民間で独立の事業をしたいと思う人物があっても、役人をやめると、さしずめ生活に困るだろう」という心配である。いやしくも相当な人間が、そんな情けないことを口にすべきであろうか。かりにも自らひとかどの学者と名のって、天下の問題を論ずるほどの人間に、全然芸なしの無能力者があるはずがない。身に付けた専門の能力で世を渡るくらいのことは、朝飯前ではないか。役人として政府の仕事を扱うのも、民間で独立の事業を経営するのも、その難易に相違のあろうわけがない。万一役人の方が仕事が楽で、収入も民間の事業より割がいいというならば、その収入は、本人の実際の働き以上の不当利得といわねばなるまい。不当な利益をむさぼるのは、紳士としてあるまじきことだ。なんの取柄もないくせに、偶然の幸いによって役人となり、いたずらに高給をむさぼって、贅沢の費用にあて、口先だけで天下国家を論ずるような手合いは、もとよりわれわれの知己とする資格はないのである。−
(第5回完)

福沢諭吉の肖像写真を提供します。
『学問のすゝめ』執筆の10年前、幕府の使節の随員としてヨーロッパに派遣された際に、サンクト・ペテルブルグにて撮影したもの。
文久2年(1862)数え29歳。出典・『福翁自伝』。


 木村流 『学問のすゝめ』 講読シリーズ (4)
木村 勝紀
2013年11月2日

 第3編(明治6年12月)です。この編は、本論の前提としての「国は同等なること」と、本論としての「一身独立して一国独立すること」との2章から成っています。前者は、第2編に引き続き、ウェーランドの『修身論』の「相互対等の責任」の翻訳部分であり、後者はその原理を日本人むけに解釈させたものです。前の第2編では、個人の権利の平等を説いたのに対し、この第3編では国家間の権利も、国力の強弱にかかわらず、平等に尊重されねばならないと力説します。天賦人権論を国際関係に適用したもので、いわば「天は国の下に国を造らず、国の下に国を造らず」の精神といえるでしょう。欧米列強の圧力の前に独立を脅かされている日本国民としては、国家の運命を政府だけに任すのではなく、各自が祖国の存立と名誉とを堅持する気概を持たなければならないことを説きます。初編でその一端を見せた国家独立論を、この第3編で改めて主題として拡大させたものといえます。『学問のすゝめ』の中でも、ナショナリストとしての福沢諭吉の面目躍如といったところです。それでは国家平等論の紹介から始めましょう。全文を紹介するには長大過ぎますので、前略、中略をはさむことをご容赦下さい。

◆国は同等なること (国家平等論)

−(前略)本来、国家とは、人民の集まったものである。したがって、日本の国は日本人の集まったものであり、イギリスはイギリス人の集まったものである。日本人もイギリス人も、同じ天地間の人間である以上、その個人同士が互いに相手の権利を侵していい道理はない。一人の国民が一人の他国民に向かって、その権利を侵していいという理屈が成り立たぬならば、二人の国民が二人の他国民に向かって、その権利を侵すこともできぬ道理であろう。この理屈は、百万人の場合でも、千万人の場合でも同様なわけだ。物の道理は、人数の多少によって変わるわけではない。(中略)現に、わが日本でも、現在の実情は、西洋諸国の富強に及ばぬ点があるにせよ、国の侵害を受けるようなことがあれば、世界中を敵としても恐れることはない。(中略)個人も国家も、貧富とか強弱とかいう状態は、決して神から決められた永遠の運命ではない。人々の努力いかんで、当然変化しうるものである。今日の愚人も、明日は知者になれるし、かつての富強国も、今では貧弱国になり下がることがないとはいえぬ。古今の歴史にその例は少なくあるまい。われわれ日本人も、今から学問に発奮し、しっかり肚を据えて、まず各自の生活の独立をはかり、その結果、一国の富強を実現するならば、西洋人の威力も恐れる必要がどこにあろう。正義を守る国には親しく交わり、正義を破る国はこれをやっつけるだけのことだ。国民が各自の独立を確保してこそ、はじめて一国の独立も全うできるとはこのことである。−

 次は個人の独立とはすなわち国家の独立の根本であるという主張です。

◆一身独立して一国独立すること (個人の独立即国家の独立)

−前条に述べたように、世界中の国々は皆同権であるが、しかし、その国民にしっかりした独立の精神がなければ、その国家独立の権利を確保することはできない。その事情を詳しく言えば、次の三つの場合がある。
第一に、しっかりした独立の精神のない国民は、祖国を愛する気持ちも強くない。独立とは、自分一身のことに責任を持ち、他人の厄介にならぬ精神をいうのである。すなわち、自分で物事の善し悪しを判断して、適当な処置を執りうる者は、精神的に他人の厄介にならぬ独立の人といえる。また、みずから心身の勤労によって、自分一個の生計を立てうる者は、経済上、他人の厄介にならぬ独立の人である。もしも国民のひとりびとりにこの独立心がなくて、ただ他人の厄介になろうとする人間ばかりだったら、全国民は皆厄介者ばかりで、その世話する人間はなくなってしまうであろう。たとえていえば、盲人の行列に、手引きする目明きがないようなものだ。まことに心細い次第ではないか。(中略)そこで、外国に対して日本の権利を守ることは、自由独立の気風を全国民の間に盛んにせねばならぬ。いやしくも国中の人民たる者は、貴賤上下なく、祖国のことを自分自身の問題として、知者も愚者も、五体満足の者も不具廃疾の者も、めいめい国民として責任を果たさねばならぬ。イギリス人はイギリスを祖国と思い、日本人は日本を祖国と思う。その祖国の土地は、他国民の土地ではなく、自国民の土地なのである。さすれば祖国を愛すること、あたかもわが家を愛するごとくでなければならぬ。国家のためには、わが財産をなげうつばかりか、命を捨てることも辞すべきではない。これこそ国に報いる最高の道である。(中略)第二に、国内において、自己の身分に独立の誇りを自覚しない人間は、外国人に対する場合も、独立の権利を張ることができない。独立の精神のない人間は、必ず他人をあてにする。他人をあてにする人間は、必ず他人の思惑を考える。他人の思惑を考える人間は、必ず他人にゴマをするものだ。いつも人の思惑を考え、人にゴマをするような人間は、自然それに慣れて、鉄面皮になってしまう。恥ずべきことも恥と思わず、言いたいことも言わず、人をさえ見れば、ヘイコラするばかりだ。世にいう「習慣は第二の性格になる」とはこのことで、いったん習慣になると、中々改めることはできない。(中略)たとえば田舎の商人連中が、恐る恐る外国貿易をするつもりで横浜などにやって来ると、まず外国人の体格のたくましいのを見てびっくりする。それから外人が金をたくさん持っているのにびっくりし、外国商社の堂々たるにびっくりし、外国汽船の速いのにびっくりする。すっかり度肝を抜かれたあげく、いよいよこれらの外国人に接触して、商売をはじめてみると、彼らの駆け引きの抜け目のないのにまたびっくりする。無理な理屈をこねられるとただびっくりするだけではない。かれらの威勢に怖じ気づいて、相手が無理とは知りながら、みすみす大きな損害を受け、大きな恥をかくことさえある。これはその人間一個の損害ではない。日本全体の損害である。その人間一個の恥辱ではない。日本全体の国辱である。(中略)これから見ても、国内において独立の精神を持たぬ人間は、外国人に対しても、独立の権利を主張し得ないことは明らかであろう。第三に、独立の精神のない者は、他人の力を利用して、悪事を働くことがある。旧幕時代には、名目金【みょうもくきん】(木村注1)といって、将軍家の一門たる御三家(水戸・尾張・紀伊の三藩)などという勢力の大きな大名の名義を借りて、人に高利の金を貸し付け、随分暴利をむさぼった者がある。そのやり口は、まことに非道なものであった。自分の金を貸して、返さぬ者があれば、幾度でも手を尽くして、政府に訴えればいいのに、政府をはばかって訴えもせず、卑怯にも、他人の名義を借り、他人の威光を傘に着て、返金を催促するとは、卑怯きわまるしわざではないか。(中略)だから、人民に独立の精神のないのは、政府にとって取り扱いが楽だ、などと安心してはいられない。国家の不幸は、意外な方面から発生するものだ。国民に独立の気力が乏しければ、彼らが国を裏切る危険もそれだけ大きいであろう。この第三条の題目に掲げた「独立の精神のない者は、他人の力を利用して、悪事を働くことがある」というのはそのことである。以上三箇条の題目は、いずれも、人民に独立の精神がないために生ずる国家の災いを述べたのである。そこで、現代の日本に生まれて、愛国の精神ある者は、官吏たると民間人たるとを問わず、まず自分一身の独立をはかり、余力があれば、自分以外の人をも独立に導くべきだ。すなわち、父は子に、兄は弟に独立を教え、教師は生徒に独立を勧め、四民ともに独立して、日本の国を守らなければならぬ。一言でいえば、昔のように、支配者が人民の力を奪っておいて、自分らだけ国事に苦労するより、全人民を解放して、これに自由と独立を与え、国家の苦楽を彼らとともに分かち合う方が賢明であるというべきである。−

 以上、第3編を紹介しましたが如何でしたか。福沢諭吉の日本という国を愛する気持ちと「一身独立して一国独立する」という強烈な独立自尊の精神が伝わりますね。司馬遼太郎さんは、『明治という国家』という作品の中で、次のように述べて明治時代の群像を紹介するのですが、福沢諭吉にも触れています。

−「明治国家」は、清廉で透きとおったリアリズムをもっていた。維新を躍進させた風雲児・坂本龍馬、国家改造の設計者・小栗忠順、国家という建物解体の設計者・勝海舟、新国家の設計者・福沢諭吉、無私の心を持ち歩いていた巨魁・西郷隆盛、自己と国家を同一化し、つねに国家建設を考えていた大久保利通、これら明治の父たちは、偉大であった。−

「一身独立して一国独立すること」の精神を放友会と放友会会員になぞらえて読むのも一興に思いますが如何でしょうか。(第4回完)

注1:名目金【みょうもくきん】
 江戸時代に、御三家、諸大名、有力な社寺等の名目(名義)を借りて貸し付けた金。利子も高く、貸借訴訟上の優先権もあって、貸主に有利であった。明治元年廃止。出典:現代語訳。


 木村流 『学問のすゝめ』 講読シリーズ (3)
木村 勝紀
2013年10月15日

 ここに新聞の紙面を思わせる編年史、ジャパン・クロニックの『日本全史』があります。明治5年(1872)2月の項には、次のような記事が載っています。当時の反響ぶりを彷彿とさせます。

「学問のすゝめ」刊行
青年層に強い衝撃
大ベストセラーに

−2月 福沢諭吉(39)著「学問のすゝめ」初編が刊行された。福沢は前年12月郷里の大分県中津に市学校が開かれるにさいし小幡篤次郎と連名で学問の趣旨を記しており、これを小冊子にしたものが同書である。同書の冒頭の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」という警句は、青年層に強い衝撃を与え、同書は大ベストセラーとなる。そしてつぎつぎに続編が書かれ、1876年までに17編まで刊行され、発行部数は海賊版を含めて70万部に達する。この年には、J・S・ミル著「自由論」(木村・注1)を中村正直(木村・注2)が訳した「自由之理」(木村・注3)も刊行された。この書の「自由」という言葉は、流行語となった。これらはいずれも、「文明開化」を象徴する出版物といえよう。−

 以上の記事は、当時の『学問のすゝめ』に対する反響の生々しさを伝えてくれますね。さて、シリーズ第3回は、第2編の紹介です。
 この第2編は、初編から約1年10か月後に出ていますが、初編の総論からいよいよ各論に移るという観があります。前書きに続いて、この第2編の「人は同等なること」は、表題が示すように、初編で説かれた天賦人権論だけを取り上げたもので、いわば初編冒頭の「天は人の上に人を造らず、ひとの下に人を造らず」という人権宣言の解説ともいえる編になっています。官民対等論・官尊民卑打破が中心となっていますが、末尾に至って筆を転じて、国民順法の義務を論じ、学問の重要性を論じて、初編の所論を再び強調しています。
 この第2編には、西洋流の社会契約論の思想が色濃く出ています。「政府と人民とに上下の別なく、政府は国民との契約関係の上に成り立っている」という民主的思想です。しかし、こうした社会契約思想は、アメリカのような共和国や、イギリスのような立憲国には適合しますが、未だ憲法も議会もなかった当時の日本の実情には先走り過ぎています。しかし、福沢諭吉は、欧米先進国の政治の原理を先取りして、日本も将来はかくあるべしという自覚を国民に訴えているのです。それではまず、前書きの部分を紹介しましょう。

◆前書き

−学問とは範囲の広い名前で、目に見えぬ精神的な学問もあれば、形に現れた物質的な学問もある。心性や心霊の研究、あるいは哲学などは精神的な学問であり、天文学・地理学・物理学・化学などは、物質的な学問である。が、いずれにしても、自己の知識や見聞の範囲を広くして、それによって物事の道理を正しく判断する力を養い、人間たる者の使命を自覚するのが目的である。したがって、知識や見聞を広くするには、時には人の話も聞き、自分でも工夫を凝らし、また、もちろん本も読まなければならない。そこで、学問には、本を読むために文字を知ることも必要であるが、昔から世間の人が考えたように、ただ文字を読むだけが学問の全部と思うのは、大きな了見違いである。文字は学問をするための道具にすぎない。(中略) 文字を読むことだけは知っていても、物事の道理を知らぬものは、本当の学者とはいえないのである。世にいう「論語読みの論語知らず」とはこのことだ。−

 前書きの前半を読むだけでも、襟を正さなければならない気分になりますね。
前書きを続けます。

−いかに『古事記』のような日本の古典を暗記している者(国学者)でも、肝心の今日の米の相場を知らないならば、それは処世の学問に明き盲だといわなければならない。(中略)つまりこれらの人間は、(和・漢・洋の学問を問わず)、すべて単なる文字の知識のブローカーにすぎないものだ。その取柄は、せいぜい飯を食う生きた字引の値打ちしかない。国家のためには無用の木偶の坊【でくのぼう】であり、国の経済を妨げる穀つぶしといってよかろう。要は、処世の法を身に付けるのも学問であり、金の出入りを調べるのも学問、今日の時代の動きを察するのもまた学問である。ただ和漢洋の本を読むだけをもって学問という理由がどこにあろうか。
 そこで、私の本の表題は『学問のすゝめ』と名づけたけれども、決して字を読むだけを勧めるのが目的ではない。この本の内容は、西洋のいろいろな本から、その文句をそのまま翻訳する場合もあれば、大体の意味だけを紹介する場合もある。それが物質上の知識たると、はたまた精神上の問題たるとを問わず、一般国民の心得となるべき事柄をとりあげて、真に学問とはいかなるものか、その根本精神を示そうとしたものである。昨年著した一冊をここに改めて初編と名づけ、初編に説いた精神を一段と詳しくして、今回この2編を書いた。さらに今後3編・4編をも出すつもりである。−

以上は、正に実学の精神を説いた部分であります。次は人権平等論です。

◆人は同等なること(人権平等論)

−本書初編のはじめに、「人は万人平等の権利を与えられ、生まれながらに上下の差別はない。わが思うままに生活することが許されたものだ」ということを述べておいた。今この第2編では、その意味をもう少し詳しく説明してみたい。人間が生まれるのは、神意によることで、人間の力によるものではない。したがって、人々は、互いに尊敬し、愛し合って、おのおの自分の職責を果たすべきで、互いに害し合ってはならない。そのわけは、皆もともと同じ人類であって、一つ神をいただき、いずれもこの天地間に生を受けた神の子だからである。(中略) ここでいう人権とは、人々が自己の生命を侵されぬこと、自己の財産・所有物を奪われぬこと、および自己の人格・名誉を傷つけられぬこと、という三つの根本的な権利をさすのである。なんとなれば、神が人間を生むに当っては、等しく人間に肉体と精神との自由な能力を与え、人々がこれら生存の権利、所有の権利および名誉の権利を全うできるように定めおかれたからである。だから、いかなる事があっても、人間の力でみだりにこれら他人の基本的人権を侵すことは許されぬわけだ。(中略) 殿様も百姓も、身分こそ違え、一個の人間たる権利は違う道理はない。百姓の身に痛いことは、殿様の身にも痛いし、殿様の口に甘いものは、百姓の口にも甘いはずだ。痛いものをきらい、甘いものを好むのは、人情自然の欲望である。他人の邪魔にならぬ限りは、自分のしたいだけの事をするのが、人間の権利というものだ。(中略) −

ここまでで、権利についてのみ力説したのに対して、最後に国民の義務としての順法精神について筆を進めるのです。

−以上述べたところは、百姓町人の側に味方して、思う存分自分たちの権利を主張せよと勧めたのだが、しかしその反面、別に注意しておきたいことがある。そもそも人間を取り扱うには、すべてその人間の人柄に応じて、当然その方法にも、手加減が必要なわけだ。(すなわち、ものの分かった人間は、自由にさせておいても間違いないが、程度の低い人間には、やはりブレーキが要るのである)。元来人民と政府との関係は、前述の通り、不可分一体のものであるが、それぞれの役目が分かれている。すなわち政府は、人民の代理人となって政治を施行し、人民は「必ず現政府の政治に従いましょう」と堅く約束したものである。そこで今、いやしくも日本人で、明治の年号をいただく限りの者は、明治政府の政治に従うことを誓った人間のはずである。だから、政府が国法と決めたことは、たとい時には、自分に不都合なことでも、その法が改正されるまでは、勝手にこれに違背することは許されない。細心の注意をもって、ひたすらこれに従わなければならない。これが人民の責任というものだ。(中略) だから一国に専制政治が行われるのは、必ずしも専制の君主・役人の罪ばかりとはいえない。実は国民が無知無学のために、自分でそういう不幸な政治を招いているのだ。現に(今の日本の社会を見ても)、他人におだてられて、暗殺を計画する者があるかと思えば、新政を誤解して、一揆を起こす者がある。強訴と称して、金持ちの家を襲撃し、酒をただ飲み、銭の持ち逃げをするやつもいる。その乱暴は、全く人間のしわざとは思われぬくらいひどいものだ。そんな暴民を取り扱うには、お釈迦様でも、孔子様でも、とても妙案が浮かぶわけはない。「もし日本国民が専制政治をのがれたいならば、今日からすぐさま学問に志して、才能人格を高め、政府と並んで、国民の実力が見劣りせぬ程度まで向上しなければならぬ」と。これすなわち、本書が諸君に学問を勧める精神である。−

 福沢諭吉が亡くなるのは明治34年ですが、明治27年〜28年に起こった日清戦争で日本が勝利したことを心から慶祝したといいます。封建制から離脱して間もない弱小国家日本が、脱亜入欧の施政と共に殖産振興に励み、短期間に自主独立の国家を成し遂げたことを、誰よりも喜んだのでしょう。(第3回完)

注1:『自由論』

ジョン・スチュアート・ミルの著。1859年刊。5章から成る。妻ハリエットと共同で想を練り、当時のイギリスの社会を背景に知的エリートの立場から、個性伸展の真の民主的社会のために、自由のあるべき姿を述べている。日本には'71年中村敬宇訳で紹介され、自由民権運動、すなわち社会が個人に対して正当に行使しうる力の本質と限界が主題。真の自由の領域は(1)内面的領域(良心、思想、感情)、(2)嗜好と探究、(3)団結、(4)おのおのの自由である。人間が過誤をおかす者である以上、思想と言論の自由は人類が真理へ近づき、確信をはぐくむのに絶対不可欠である。個性の自由な発展を阻害する慣習を打破するのは天才の思想と行動における独創性であり、社会は天才の出現を許さねばならない。社会の成員は、相互の利益をそこなわず、そのための社会的義務を負わねばならないが、純粋に個人的な行為に対して社会は干渉すべきではない。以上の論拠から、さらに具体的事例(商業、警察、教育、など)が考察されている。出典:ブリタニカ国際大百科事典。

注2:中村正直【なかむらまさなお】

1832〜91(天保3〜明治24)明治前期の啓蒙学者。幼名釧太郎のち敬輔、正直は諱、号を敬宇。昌平黌【しょうへいこう】に学ぶ。1855(安政2)昌平黌教授、'62(文久2)儒官に列する。'66(慶応2)渡英。'71(明治4)スマイルスの『セルフ・ヘルプ』を翻訳した『西国立志編』を出版。これは明治の聖書といわれたほどで、J・S・ミル『自由論』の翻訳『自由の理』とともに多大の影響を与えた。'72政府に出仕、一方私塾同人社を設けて英学を教授、<三田の聖人>福沢諭吉とならび<江戸川の聖人>といわれる。また明六社でも活躍、キリスト教にも心服し、まだ禁教であった'72に、天皇も洗礼を受けよとする匿名論文『擬泰西人上書』を書き、自らは'74に受洗。'76訓盲院設立、'77東大文学部教授、'86元老院議官、'90女子高等師範校長を歴任した。勅選貴院議員。出典:コンサイス日本人名事典。

注3:『自由之理』【じゆうのことわり】

明治初年、中村正直の翻訳書。
1872年刊。イギリスの功利主義思想家ミル(J.S.Mill)の『自由論(On Liberty)』を翻訳。自由民権思想の普及に大きな役割を果たした。
出典:日本史事典。


 木村流 『学問のすゝめ』 講読シリーズ (2)
木村 勝紀
2013年09月30日

『学問のすゝめ』各編の内容
 『学問のすゝめ』は、各編おおむね主題を異にした独立の文章から成っていますが、時には2編一つながりの場合もあり、また1編中に二つの独立した短文を含む場合もあります。それでは、ここから各編の内容を紹介してまいります。但し、現代の目で歴史を律してはいけません。福沢諭吉が、この『学問のすゝめ』を執筆したのは、明治維新から間もない今から140年も前のことですから。その時代の社会背景を前提にしながら読まないと福沢諭吉の開明的な偉大さが伝わりません。それでは先ずは、初編から記します。

◆初編(明治5年2月)
 先ずは、『学問のすゝめ』の書き出しの十数行を読んで頂いて、福沢諭吉の温もりの一端を感じ取ってもらいましょう。

−「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉がある。その意味はどうかというと、「神様が人間を造るに当っては、どの人間にもみな平等の権利を授けられた。だから、生まれながらに貴賤上下の差別などというものはない。人間はみんな、万物の霊長たる固有の心身の活動により、天地間にあるすべての物資を利用して、衣食住の役に立てることができる。そうして、だれに遠慮気がねもなく、しかもお互い同士迷惑をかけ合うこともなしに、めいめいが安楽にこの世を渡られるようにしてやろう、とそういうのが神様のおぼし召しなのだ」という意味である。−

 この初編には、2編以下のような題名がありません。それは、前回紹介したように、最初の予定がこの1冊だけで完結するつもりだったからだと思われます。この編は、上記のように有名な「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(注1)という言葉から始まっています。これは西洋近代化の啓蒙思潮の一環である天賦の人権思想(天はすべての人間に平等の権利を与えているという思想)を端的に表した言葉といえます。この新しい人間尊重の精神に立って、封建時代の人権無視・官尊民卑の弊風から脱却し、国民の自主独立の気風を喚起したのがこの編の主眼と思われます。
 しかし、ただ自由や平等だけを主張しているわけではありません。人々の基本的人権は平等ですが、現実社会には賢愚・貴賤・貧富の差などが厳然として存在し、その相違が甚だしいのは何故かといえば、それは学問の有無によるのだと、福沢諭吉は説きます。そして、学問の重要性を広く国民に教えようとしたのです。これがすなわち『学問のすゝめ』の書名の由縁だと思います。
 封建時代には、士族以外の百姓町人は学問を重んぜず、無学文盲を恥とはしませんでした。しかし、廃藩置県が断行され、国民平等の新社会が実現したのを機会に、福沢諭吉は国民皆教育をもって文明開化の最重要事としたのでした。
 福沢諭吉の奨励した学問は、旧時代の詩文・和漢学のような閑文字【かんもじ】(注2)や、特権階級の学問ではなく、あくまで一般国民の日常生活に直結する「実学」でした。福沢諭吉のいう「実学」は、卑近な実用一点張りの学問だけでなく、「実証の学」すなわち科学も意味していました。それは、古来の封建社会を支配した儒教的観念論の否定であり、近代西洋の進歩をもたらした合理主義・科学精神の奨励にほかならなかったのです。
 福沢諭吉の自由平等の精神は、個人にみにとどまらず、国家にも適用するのでした。当時の東洋には、西欧列強に対抗できる強力な独立国家はなく、中国・インドですら西洋の侵略主義の餌食となって、植民地ないし半植民地化の運命に甘んじていた時代です。極東の一弱小国にすぎなかった日本も、一歩誤れば、その二の舞を踏みかねないのです。福沢諭吉は一方で外国交際の必要を力説しながら、他方強烈なナショナリズムの精神に燃えて、国家独立の急務を訴え、国民の愛国心を鼓舞してやみませんでした。
 この編の重要な思想は、国法尊重の精神です。人間は自由の権利を有しますが、権利の限界を知らなければ他人の自由を侵して、わがまま勝手に陥ります。そこで、福沢諭吉は、権利の限界を「分限」という言葉を使って、国民はよく分限(自己の責任)を守って、他人に迷惑をかけぬよう警告しました。また、福沢諭吉は、国民が無知文盲のため、国法を破ることを戒め、全国民が学問に志し、徳をおさめることによって立派な社会を実現すべきだと力説しています。西欧先進国のモラルを教えたものです。
 要するにこの初編は、福沢思想の根本をなす人権平等の精神、独立自尊の精神、実学の精神、国家独立の精神、遵法の精神などを集約したことにあります。いわば『学問のすゝめ』全体の総論的位置づけにあり、2編以下に展開される議論を理解する鍵が隠されているといっても過言ではありません。

 原文のすべてを紹介するにはあまりに長大なページ数になってしまいますので、最後に福沢諭吉自身の「後書き」の文章を紹介しましょう。

 −このたび、われわれの故郷中津に市学校を開くことになったので、学問の精神を記して、旧知の同郷の人々に示すため、この一部の書を作った。ところが、これを見たある人から、「これをただ中津の人だけに読ませるより、一般社会に広めた方が一段と有益であろう」と勧められたので、慶応義塾の活版で印刷して、世の有志の人々に示すことにしたのである。

明治四年十二月

福沢諭吉     
小幡篤次郎 (注3)

 今回はここまで、次回は第2編に移ります。 (第2回完)

注1:「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
   アメリカの独立宣言(1776)の一節「すべての人は神から平等に造られている云々」という言葉を福沢流に表現したものと云われます。出典:現代語訳。
注2:閑文字【かんもじ】
   役に立たない、むだな文字や言葉。また、無用の文章。出典:広辞苑。
注3:小幡篤次郎
   慶応義塾における福沢最古参の門弟。中津出身で、市学校の初代校長となった。出典:現代語訳。


 木村流 『学問のすゝめ』 講読シリーズ (1)
木村 勝紀
2013年09月23日

はじめに
 冒頭「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」から語りはじめる福沢諭吉の『学問のすゝめ』は、あまりにも著名ですから誰一人知らない人は居ないでしょう。特に、慶応義塾にご縁の方にとっては、バイブルの如く諳んじておられるかも知れません。しかし、一般には名のみ知られて、内容は案外読まれていないのではないでしょうか。実は私もこの年になるまで文語体の原本に目を触れさせたことがなかったのです。最近、社会思想社の現代語訳『学問のすゝめ』伊藤正雄訳を読んで感銘を受けた次第です。触発されて放友会の皆さまにも、この現代語訳を通して、その真髄を紹介したいと思った次第です。このシリーズは全編を通じて、この現代語訳『学問のすゝめ』を中心に利用させていただくことをお赦し下さい。先ずは、福沢諭吉の小伝から紹介します。

福沢諭吉の小伝
 福沢諭吉は天保五年十二月十二日(西暦1835.1.10)、大阪堂島の中津藩蔵屋敷【くらやしき】に生まれました。父百助 【ひゃくすけ】は、多年そこに在勤した下級武士でした。生後一年半で父の病死にあい、一家は郷里の中津(大分県中津市)に帰ります。しかし、封建の門閥制度に矛盾を痛感した彼は、青年期に入るや、まず学問の新天地を求め長崎におもむき、ついで大阪の蘭学の大家緒方洪庵【おがたこうあん】の塾に入って、蘭学の修業に励みました。安政五年(1858)、数え年25歳のとき江戸に出て、築地の中津藩邸内に塾を開きます。後の慶応義塾のもとになります。ほどなく彼は、すでに蘭学が時代に適さないことを悟って英学に転じ、独学で英学の先駆者となりました。やがて洋学の力を認められて、幕府に登用され、外交文書の翻訳に従事することになります。そしてその前後に、幕府の海外使節団に随行して前後3回洋行する機会に恵まれます(万延元年米国に、文久元年欧州に、慶応三年再び米国に渡る)。明治維新(1868)の時、彼は数え年35歳の働き盛りになっていました。新政府から再三出仕を勧められましたが、それを受けず、もっぱら民間にあって、慶応義塾での教育と、国民啓蒙のための著作を使命とする態度を変えませんでした。慶應義塾は発祥地の築地から一時芝新銭座【しんせんざ】に転じ、さらに明治4年三田の現在地に移りました。その間、日本最大の洋学校としての地位を確立し、その出身者から全国に新文明の指導者となって活躍した者を輩出することになります。またおびただしい福沢諭吉の著書は、格好の国民読本として人気を博します。中でも『学問のすゝめ』(明治5年〜9年刊)は、いわゆる文明開化のバイブルの観があり、社会的影響の大きかったことは今日の想像を超えるものがあったといいます。同じ時代の『文明論之概略』(明治8年刊)も福沢思想の最も体系的な大著として重要だといわれます。明治初年から10年ごろまでの我が国開明の機運は、福沢諭吉によって指導されたといっても過言ではないのです。その後、日本の官僚国家体制が強まるに伴い、福沢諭吉の自由主義思想は、時代の主流から遠ざかるに至りましたが、明治15年(1882)には『時事新報』を創刊して、新聞人としても多大の成功を収めました。晩年の著作では、『福翁百話』(明治30年刊)、『福翁自伝』(明治32年刊)などが代表的なものです。ことに後者は、日本人の自伝文学の最高峰として定評があり、私の読んだ数少ない福沢諭吉ものの一つとして、本棚に飾ってあります。明治34年(1901)2月3日、数え年68歳で没しました。

『学問のすゝめ』の成立ち
『学問のすゝめ』は、福沢諭吉生涯の60種に近い著書の中でも、彼の全盛期を代表する主著です。明治5年2月から9年11月まで5年近くにわたり、17編の小冊子として出版されました。最初は初編1冊だけのつもりだったのが、想像以上に需要が多かったので、2編、3編と書き続けることになったといいます。最初刊行の動機は、明治4年福沢諭吉の提唱で、その郷里中津に市学校と称する学校が設立されることになり、その地の青少年たちに読ませるため執筆したのを、同じことなら世間一般に読ませた方がいっそう有意義であろう、という周囲の勧めに従って公刊したのだそうです。明治4、5年といえば、廃藩置県と同時に文部省が創設され、ついでいわゆる学制頒布【がくせいはんぷ】(注1)が行われて、全国にはじめて小学校が設けられることになった時期です。明治の新教育制度の発足期ですが、当時いまだそれに応じるだけの教科書が間に合わなかったため、福沢諭吉のような知名学者の著訳書が利用されました。『学問のすゝめ』は、そうした時代の需要にこたえたものでした。各編約20万部、17編合わせて約400万部売れたと伝えられます。『学問のすゝめ』以前の福沢諭吉の著作は、有名な『西洋事情』(明治2〜明治3年)をはじめ、多くは西洋諸事情の単なる紹介か、原書の翻訳などを出なかったようです。17編のうち、前半の8編あたりまでは、アメリカの学者・教育家フランシス・ウェーランド(1796~1865)の著『修身論』(1835初版)などの翻訳・翻案の部分が少なくありませんでした。『修身論』は、主としてアメリカ流の民主主義道徳を説いた本でした。しかし、福沢諭吉は、思想の根幹をそうした原書に仰ぎながら、それを巧みに日本の実情に当てはめて説いたので、全編ほとんど翻訳臭を感じさせないのです。応用の才の豊かさとともに、主体性の強さが滲み出たものと思われます。こうして『学問のすゝめ』は、著者が単なる翻訳家・西洋紹介者の段階から、思想家・評論家に脱皮したことを示す点で画期的な意味をもつものといえるでしょう。福沢諭吉もまた、我々が論文をものにするときに多くの原書に頼るのと同じ経過を辿ったと思うと、親近感が湧きますね。第1回は、この辺にして次回からいよいよ各編の内容の紹介に移ります。

(第1回完)

注1:学制頒布
明治5年(1872)8月、明治政府が学制を定め、全国に頒布したこと。頒布に当り、国民皆学の理念、学問・実学の重要性などを説いた太政官布告「学事奨励に関する被仰出書」(「学制序文」)が公布。出典:広辞苑。