タイトル
作 者
投稿日
「小倉百人一首」を楽しむ面接授業New 永井 藤樹 2016.9.6
マリー・ローランサンの絵画と詩 永井 藤樹 2015.8.16
西行の命、芭蕉の命 (旧東海道を日坂宿から金谷宿へ)   永井 藤樹 2013.8.25
しゅうまい定食 秋山 智子 2011.12.8
放送大学学生生活前半4年間を振り返って 松崎 達信 2011.4.24
初めてのボランティア 村木 久美 2011.3.10
放送大学再入学 服部 高重 2010.9.2
ぶどう物語 ─ぶどうの歴史、国産ワインの歴史、横浜のぶどう─ 永井 藤樹 2010.8.23
京都に行ってきました。 吉田 昭二 2009.12.18
往復書簡「モコちゃん物語」 永井 藤樹 2009.10.10
横浜にちなむ文学者の足跡 木村 勝紀 2008.6.10
放送大学、神奈川放友会に入会して 松崎 達信 2007.9.30
福沢諭吉と麻布山善福寺 木村 勝紀 2007.6.29
小説家・島尾敏雄 木村 勝紀 2007.6.7
木母寺と向島百花園 小澤 節子 2007.6.18
初めての俳句、初めての句会 和井 良樹 2007.6.2
東京文学散歩 千駄木・根津 木村 勝紀 2007.5.16
「楚囚之詩」物語 木村 勝紀 2007.4.25
昭和20年7月19日の思い出 木村 勝紀 2007.4.18

 「小倉百人一首」を楽しむ面接授業
永井藤樹
2016年9月6日

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 マリー・ローランサンの絵画と詩
永井藤樹
2015年8月16日

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 西行の命、芭蕉の命 (旧東海道を日坂宿から金谷宿へ)
永井藤樹
2013年8月25日

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 しゅうまい定食
秋山 智子
2011年12月8日

 "本当に欲しかったものをもらっていない"という恨みがましい気持が、
心のどこかにしまわれているのではないかと気付かされる時がある。
 それは、ほんの些細な、アクシデントとも言えないようなできごとで、発覚する。

 先日、用があって東京へ出かけた。
11時になったので、食事をしようと、ある店にはいる。
二人掛けのテーブルが3つほど置かれた、小さな店だ。

 午前11時の、開店早々。客は二人だけだ。
スーツを着こんだサラリーマン風の男性が、おでん定食を食べている。
わたしは迷わず、しゅうまい定食を頼む。
以前この店の前を通りかかった時、しゅうまい定食売り切れました、という表示を見て、
次にこの町に来た時に、是非とも食べようと思っていたのだ。

「しゅうまい定食を」
とわたし。
注文を取りに来た女性、こちらが頼んだものを
復唱する声がいまひとつ聞き取りにくかったが、
通じたのだろうと思って待っていると、ほどなくして出てきたのは、
隣の男性たちと同じおでん定食。
どうやらくだんの女性の、聞き間違えらしい。
さて、どうする。おでんも嫌いではないのだが……。
どうもこうしたこじんまりした店で、注文間違いを指摘するのは酷な気がする。
彼女が注文を復唱した時に、あいまいなまま確認しなかったわたしも悪いのだ。
そこで何食わぬ顔をして食べ始める。
が、どこか上の空である。
こんにゃく、大根、はんぺん、ちくわ、……定番のものを口に放り込みながらも、
頭の中は"しゅうまい"の文字でいっぱいである。
目の前にあるショーケースには、"しゅうまい巻き"とやらはあるが、純粋なしゅうまいはない。
あれば迷わず追加注文するのだが。

 おさまりがつかない気持ちのまま、食べ終わり、会計の時に聞いてみたら、
テイクアウト用のしゅうまいがあると言う。
3個400円。個数も手ごろ。
お腹はいっぱいだが、食べられない量ではない。
迷わず購入。

 そのまま帰宅するのならいいのだが、あいにくこのあと用がある。
しかもアツアツのしゅうまいは、今が食べ時。とあれば、もう迷っている暇も余裕もない。

 近くのスターバックスに駆け込み、コーヒーを注文。
名目は食後のコーヒー。
でも頭の中には、しゅうまいの文字。
ご自由にお取りくださいコーナーに並んでいるシュガーやミルクと一緒に、
フォークもいっしょにいただいて、席を探す。
トイレの近く、壁側のテーブルがあいている。
気持ちが、やましいと、選ぶ席も、何となくうらぶれている。

 あたりを見回すと、持ち込みなどしている客はいないようだ。
さりとて、持ち込みお断りとも書かれていない。
それもそのはず。
ここは東京、麻布十番。近くには大使館なども立ち並ぶバリバリな大都会。
外人さんやら、スーツ姿のサラリーマンの憩う場所。
スーパーのフードコートよろしく、よそで買った食料品を持ちこんで、
むしゃくしゃ食ってるやつなど、あり得ないのである。

 それでも臆することなく、テーブルの上に鞄を置いて目隠しにして、
その陰でこそこそとシューマイのパッケージをあけて食べ始める。
こういう時に限って、店員さんが意味もなくやってきて、
あたりのテーブルを何度も拭いたり、トイレチェックにはいったり。
さりげなく、監視されているように感じられる。
さきほどのおでんの時とは違った意味で、落ち着かない。
こんな状況で食べれば、どうしたって、急ぎ足になる。
やけどしそうになりながら、2,3分で食べ終わる。

 食べ終わった感想は、と聞かれれば、職場で昼時に頼む「ジャンボしゅうまい定食」と
同じくらい美味しかったと答えるしかない。
答えてみれば、そんなの最初っからわかっていたような気もしてくるのだが、
それでも、食べてみなければ気が済まない、こだわらずにはいられないという、我ながらの
扱いづらさ。

 本当に欲しかったものを無理やり、取り戻してみたものの、
ものにはそれを味わうのに相応しい時と場所があるようで、そのタイミングを逃したら、
すでにそれは、本当に欲しかったものなどとは言えなくなっている。

 それがわかっていながらも、このテのことは、今後も繰り返してしまいそうな予感がするから
油断がならないのである。

− 了 −      


 放送大学学生生活前半4年間を振り返って
松崎 達信
2011年4月24日

はじめに
 2007年秋、この欄にエッセイを載せて頂きましたが、その後の生活を中心に少し書いてみたいと思います。

1.A 生まれて初めての奨学金受領
放大の案内書を取りに神奈川学習センターに行ったとき、学内の掲示板を見ていたら選科履修生を対象とする奨学金があり、その日が締め切りの3日前でもあったので応募したところ、幸運にも返還の不要な奨学金を頂いた。
思い返せば50年以上前、大学入学と同時に奨学金を申し込んだところ、私立高校の卒業生には枠がありませんと門前払いをくい、残念な思いでいっぱいになった。東京出身のためか寮にも入れず、学友たちが国の奨学金のほか出身県からも奨学金をもらい、寮で優雅に学生生活を送っていたのを指をくわえながら見ていた最初のトラウマが、これで解消したような気がする。

1.B 女心は未だ全くわからない
前回のエッセイで短い詩を書いた。大学3年の時、女子大生やBG(今のOL)を誘って所属サークルの旅行研究会で1月ほど北海道を旅行した。そのときペアで行動してはいけないというルールを破って、どうしても大雪を縦走したいという彼女につられ、天人狭〜旭岳〜黒岳〜層雲峡と山登りの装備もせず、遭難しかかりながら縦走した。その時の想いでの詩で、僕にとっては青春の大切な1ページである。
彼女と彼女の親友Mさんとは今でも時々逢っているが、3年ほど前に3人で会った時、あの詩について感想を聞いたところ、彼女から「私にとってもあれは青春の一つの思い出だわ」と軽くいなされた。ただ彼女が席を外した時にMさんは「Nさん(彼女)は私にとって最高の思い出だと言ってたのよ」とひそかに教えてくれた。これをどう解釈したらよいのか?僕には放大の試験よりもむつかしい永遠の謎におもえる。

2007年
会社生活終了後8年たって放大に入学し、放友会のメンバーになり充実した年だった。先に述べた8年間に社会人大学講座を聞き、自治会役員を務め、水彩画、オカリナを習い、コーラスや歌声や読書会に参加し、それなりに充実していたが物足りない部分も多かった。放大の面接授業や、放友会の仲間との心温まる交流はそれらを補って余りあるものだった。一例として本校一泊研修と歌舞伎教室参加について述べると以下のように僕にとって特別なものであった。

2.A 本校一泊研
図書館の100万冊近い蔵書のなかで、その時見せて説明して頂いた「縮緬本」の繊細さに驚嘆し、柏倉図書館長の薀蓄あるお話に心が弾んだ。また翌日登った鋸山は母の故郷の山で、一度は登りたいと思っていたので母にやっと恩返しをしたような気持ちがした。

2.B 歌舞伎教室参加
中学の時、同じ小学校から進学した友人の家が美容院で、何人かの若い美容師さんが働いており、その中に歌舞伎「命」とも思える人がいた。友人が断ったために、ボデイガードとして何回か歌舞伎座のいわゆる天井桟敷で鑑賞した。舞台まで余りにも遠すぎるためか、美容師さんによる詳しい解説もなかったためか特に興味もわかず60年近くたってしまった。今になってみると残念な気もする。

2008年
放送授業では念願の「分子生物学」や「細胞生物学」の授業で生命現象についての最新の状況を知り、面接授業では「生命の起源」や日本の漢詩の伝統など新鮮な多くの授業を受けた。そのほか、旅行や懇親会など楽しいことも沢山あったが、特に印象に残っていることは以下のことである。

3. 文部科学教育通信掲載
当時の事務長は大田さんという方で、何故だか分からないが太田女史に見込まれたようで「文部科学教育通信」に記事を書くことになった。
「私の放送大学」というコラムで、以前に掲載された二人の先輩の記事が参考までにと送られてきた。一読して放送大学の生徒さんの中には凄い人がいるものだと思って困り果てたが、引き受けた以上後にも引けず悩みぬいたあげく「未来へのパスポート」というキャッチフレーズを発見し事なきを得た。又これも太田女史から強く勧められ、2009年から毎年入学金を払わずに済む全科生に変更することにした。

2009年
専攻をどれにしようか迷ったが、過去2年間で生物関係のほか、芸術系の放送科目も沢山受講していることもあり、高校時代あまり学ばなかった歴史をしっかりと勉強するつもりで「人間と文化」を専攻することにし、「日本の古代」からスタートした。箸墓古墳や長屋王家木簡など、当然の事とはいえ、僕の知っていた古代と全く異なった古代史に目を見張るようなことばかりだった。通信指導問題は初めての論述式であったので、かねがね疑問に思っていた宮内省管理の天皇稜墓?について、考古学者や歴史学者が発掘調査の申請や依頼をしないことについて質問したところ、詳しく事情を解答して頂いた。それでもまだ疑問の解消には至ってないが一生徒の疑問に丁寧に解答して下さった事は本当に嬉しかった。(ちなみに若き学生時代のその他の疑問は、尊属殺人の刑の重さが酷すぎる事と非嫡出子の法定相続分が嫡出子の半分であることなどで、前者は解消されたが後者は未だ未解消である)またこの年の学生生活では次の事が印象深かった。

4.A 吉田名誉会長(当時)の講演の後のオカリナ演奏
本校一泊研修での講演は、僕の二つの大学の大先輩でグランドスラムを達成された吉田さんの講演だったが、お祝いの意味を含めて、彼が旧制高校時代にボート部でよく歌ったという琵琶湖周航の歌などを演奏し皆さんに歌っていただいた事である。(なお、彼の女性のお孫さんは京大でボート部に所属していると講演の何か月か前の飲み会で彼からお聞きしていたので、幹事さんに演奏と合唱を特に要望し快諾を得たものである。遅ればせながら当時の幹事さんにお礼申し上げます。)

4.B 大学案内のモデルになる
ある日、突然千葉の本校から電話がかかって来て、内部で検討したがあなたの記事は評判が良いので、2010年の大学案内に前掲の「文部科学教育通信」を載せてもいいですかとのこと。世に出たものをいまさら---と思って承諾したら、インタービュウと写真撮影をするので良ければお宅に伺いたいとのこと。ここで断るわけにもゆかず承諾したら、総務の方がプロのカメラマンを連れてきて、2時間ほど会談した後で家の内外で30枚位写真を撮っていただいた。今まで、かなりの経験はしてきたが個人で写真のモデルは初めてで、最初のうちは表情などの注文が多かったが、10枚を超えるころから慣れてきた。その後何枚かの候補写真が送られてきて、もっともよいと思われたのが大学案内に載ったものである。

2010年
この年は面接授業が充実していた。「書の楽しみ」では長い間忘れていた墨を磨いたり筆で字を書く楽しさを味わい、「哲学の基礎」では社会史、個人史に分けながら副題の「愛の哲学」にふさわしく時代を追って解説して頂いた。中でも近代のロマンティック・ラブについては「フィガロの結婚」のDVDでオペラについて詳しく解説して頂きよく理解できた。「長唄入門」では三味線の実技があって面白かったが、講師が三味線のプロの上にオペラ歌手でもあり、たまたま1月前に習った「フィガロの結婚」の侍女役を演じていて、30?年ぶりに手に入れたビデオで解説してくれたので、偶然とはいえ驚いた。

終わりに
この文章を書きながら思い返してみると、本当に充実した4年間だったと実感させられた。放友会の皆様には何とお礼申し上げてよいか分からない位です。

− 以上 −  


 初めてのボランティア
村木久美
2011年3月12日

 昭和39年(1964)、高校入学間もない5月の事である。私は授業の最中にも拘わらず、クラス内に1枚の回覧を回した。内容は「老人ホームを一緒に訪問しませんか」と呼び掛けるものである。公立女子高の団塊世代のクラスには60名近くがひしめいており、まだお互い顔も名前も一致しない状態であった。応じてくれる希望者は、おそらく1人もいないのではないかと半ば諦めかけていたところ、なんと6〜7名の級友が名乗りを上げてくれたのである。あの時の驚きと感動は、今でも忘れる事が出来ない。   
 そのホームとは、福島市内の中心部から少し離れた郊外にあった。ところが、訪問の当日はあいにくの大雨で、私たちは傘をさしながら沢山のカーネーションを抱え、30分以上も阿武隈川の土手道を歩き続けたのである。降りしきる雨の中、私は彼女たちに申し訳ない気持ちで一杯だった。しかし彼女たちは制服や靴下が濡れるのも気にせず、文句一つ言わずに長い道のりをひたすら歩き続けてくれたのである。その事を思い出す度に、私は今でも感謝の気持ちで胸が一杯になるのだ。
 そのホームは、雨の中に一層寂しげな佇いを見せていたが、女性の園長さんの笑顔を見た時、私は何ともいえない安堵感に包まれたものである。園長さんは各部屋のお年寄りの皆さんに、私たちが持参した花を配りながら、高校生の訪問を告げてくれたのだった。訪問したのは良いが、私たちはホームの皆さんに何を話し掛けて良いのか戸惑っていた。すると、ホームの皆さんは逆に優しく話し掛けてくれたのだった。そして、少しずつ楽しさの輪が広がっていった。その日一日を楽しく過ごした私たちは、別れを惜しんでくれる皆さんに手を振りながら、再び降り続く雨の中を帰途に着いたのである。
 それにしても、今でも忘れられないあの日の記憶がある。入所者の一人の男性が、その昔恋人とパリに逃避行をしたという話を語ってくれたのである。時代的には昭和初期の頃であろうか、当時のパリは今とは桁違いに遠い外国であり、旅費も相当高額だった時代である。男性の行動力もさる事ながら、お相手の女性の勇気にはとても驚かされたものだ。その男性は少し自慢げに、それでいて少し寂しげに、昔の恋物語を私たち高校生に聴かせてくれたのである。その逃避行は、その後どの様な経過を辿り、何時どの様にして彼がこのホームに入所するに至ったかは分からないが、男性は若き日の愛の記憶を生きるよすがとして、ホームでの生活を送っていたのかもしれない。
 以上が私にとっての「初めてのボランティア」であった。

 私がボランティア活動に関心を持ったのは高校時代であるが、その原点を辿れば一つの記憶が蘇る。幼い頃、母の実家へ向かう途中の、乗り継ぎバスを待っている時の光景である。待ち時間があったのか、母は停留所の真ん前に建っているある農家に入って行った。そして、一人の老女を外へ連れ出して来たのである。その老女は目が不自由だった。やがて母は、その老女の手のひらに指で文字を書きながら、老女と会話を始めた。目が見えない人とでも、この様にして会話が出来るものかと、私はとても驚いたものである。
 母はこれまで、実家に帰る道すがら何度もこの様にして老女と会話をし、世間話をしていたのかと私は思った。同時にこの光景は、幼かった私の心に強い印象を残したようだ。そしてこの記憶は、その後の私の生き方に少なからぬ影響を与え、私のボランティアに対する原風景となったように思うのである。
 高校1年の秋、私はJRC(青少年赤十字奉仕団)と出会い、深く関わって行く。県の連合会活動に於いても、JRCの先輩、学生赤十字奉仕団の大学生、そして青年赤十字奉仕団の社会人の人々とも出会いを重ねていった。私は彼等から多くの薫陶を得、様々な事を学ぶ機会を得たのである。やがて彼らとの出会いは、その後の私の人生に大きな影響を与えていった。
 ところで、私の親の年代の人々にとっては、困っている人に手を差し延べる事は当たり前の行為だった。でも今は世の中が複雑になり、小さな親切も「おせっかい」になりかねない。誠に悲しい世の中になったものだが、助け合う事が自然に行なわれ、「ボランティア」の言葉が死語になる世の中を、私はひたすら願っているのである。母は2006年年末に突如他界した。その悲しみは容易に癒えることはないが、私も母のように、当たり前の優しさと思いやりの持てる人間になりたいと願っている。春風のように、いとも自然に人に接する事が出来たなら、それはとてもとても素敵なことである。
 「与えることは 与えられること」…この言葉にも励まされながら、社会の片隅で、ささやかな明かりを灯し続けたいと願っている昨今である。

− 終 −  


 放送大学再入学
服部 高重
2010年9月2日

 私は昨年(平成21年)3月IPCCを69歳で退団し、46年間のサラリーマン生活に終止符を打った。健歩会をはじめ5つのクラブ活動を楽しみながら、「社会貢献」の出来た充実した12年間であった。私は更に4年間延長して73歳で退団し、丁度50年間のサラリーマン生活を終える心算であったが、平成22年度の特許庁発注の住環境グループへの検索案件が7000件から5600件に激減したため、残念ながら退団せざるを得なかった。
 退団後、ベターホームの料理教室に入った。火曜日午前中の「男性だけの和風基本料理」のクラスで、生徒は皆高齢の退職者である。家内は「料理は頭を使うのでボケ防止になるのヨ」とか「教室で習った料理は、3回は復習しないと、身に付かないノ」等と煽てる。
 結局、夕食は私の担当になった。朝刊のスーパーの折込広告から、夕食のメニューを考える日課である。主婦ではなく主夫である。昼間はテレビのスポーツ番組や再放送の時代劇と刑事物をダラダラと見ている。「相棒」の主役俳優の水谷豊を初めて知った。外出は健歩会他のIPCCの諸クラブ・ゴルフ・小中高大の同期会等である。上京の機会が多いので、現役時代と同様にJR鎌倉新橋間の定期パスを持っている。
 以上が退職1年間の近況であるが、「社会貢献」が全く無い「無為徒食」の生活である。若干の就活を試みたが、70歳を越えると困難であった。発想を転換して、今年4月から放送大学に入学して勉強を始める事にした。放送大学は、IPCCと同年の昭和60年(1985)年に開学した正規の大学で、4年以上在学して124単位を取得すると、教養学士の学位を授与される。私は一年間の選科履修生として入学し、次の4科目を勉強する事にした。

  • 日本近現代史
  • 教育の社会史
  • 運動と健康
  • 食と健康

 4月4日の入学者の集い(入学式)にも出席した。色々なクラブと同好会から入会の勧誘があり、IPCC入団当時を思い出した。私の学生番号は881−150153−7で、大学事務局の説明によれば、881は1988年1学期入学を意味する。確かに22年前の昭和63年、私は選科履修生として入学したが、当時は現役で多忙なため、単位は何も取れずに、退学届も出さずにそのままになっていた。私は感激した。放送大学は私を見棄てていなかったのである。
 放送大学の全科目は約300で、何れも45分間の15回の講義で構成されている。
「運動と健康」ではスポーツ科学を体系的に学習できるが、ここではその中からウオーキングに関係する記述を摘録する。

  • 直立二足歩行が、ヒトを他の動物と区別する重要な要因の一つであり、歩行運動がヒトの基本動作である。
  • ヒトは二足歩行に適した体の構造と機能を有する。従って、歩くことによってはじめて正常な生理機能が営まれる。
  • 左右の下肢は支持足(軸足)と運動足に区別され、支持足は利き手の左右反対側にある。立位姿勢では、支持足側への荷重が大きく、歩行時には支持足の接地時間が長い。
  • 体力(筋肉)は20歳代をピークにして、加齢に伴い低下する。上肢の握力に比べ、下肢の脚力の低下が顕著で、60歳代では20歳代の約50%までに低下する。
  • 「健康日本21」のねらいは、健康づくりと生活習慣病予防にあり、ウオーキングが特に推奨される。

 私が所属する神奈川学習センターに、吉田昭二氏(昭和二年生れ?)が大学院生として在籍している。この御仁は東大卒の造船のエンジニヤであったが、会社定年後放送大学に全科履修生として入学し、20年間で教養学部の全6コース(学科)を卒業している。これを放送大学ではグランドスラムと言う。工学部で言えば、土木・建築・機械・電気・応化・造船等の6学科を卒業した事に相当する。私は来年4月には全科履修生になり、「人間と文化コース」の卒業を目指そうと考えている。

[後記] 

 本文は、私が昨年3月まで勤務していた(財)工業所有権協力センター(IPCC:Industrial Property Cooperation Center)の健歩会(ウオーキングクラブ)の20周年記念誌に書いたエッセイを、そのまま転載したものです。IPCCは特許庁の外郭団体で、全職員約1750人のうち約1580人は民間企業出身のエンジニヤで、審査官のお手伝いをしています。文中に「社会貢献」が散見されるのは、次のIPCCのモットーを意識しているからです。

「社会に貢献し 互いに助け合って 心豊かな人生を送る」


 ぶどう物語 ─ぶどうの歴史、国産ワインの歴史、横浜のぶどう─
永井 藤樹
2010年8月23日

 個人的なことですが、私は農園の作男として梨、ぶどうの果樹園で農繁期に働いています。私は毎年繰り返される果樹園の仕事の間に、ぶどうのことを知りたいと思うようになっていました。たまたま今年行われる「バス学生研修旅行」は、ミレーの「種蒔く人」やバルビゾン派の絵画で有名な「山梨美術館」、武田信玄の菩提寺である「恵林寺」と「シャトー勝沼」に決まり、「国産ワインの歴史」の調査が私に割り当てられました。しかし、ワインの起源は外国にあるので、少しそのあたりから調べてみることにしました。

『ワインの起源』

 ワイン造りを証明する最も古い遺物がメソポタミアの先住民であるシュメール人が残した6000年前の遺跡から発見されています。ですから、ヨーロッパ系のぶどうの原産地は、古代オリエント地域と考えられています。BC3100〜1500年に栄えたエジプト王朝のピラミッドの壁画にブドウ栽培やワイン醸造の絵が描かれています。BC600年ごろにはフェニキア人によって栽培方法や醸造技法がヨーロッパに伝えられ、その後ローマによってヨーロッパ全体に広まって行きました。やがてキリスト教がローマ帝国の国教に指定されると、ワインは宗教儀式に欠かせないものになり、ぶどうの栽培やワイン造りの中心は修道院に移りました。新約聖書のマタイによる福音書26章は「最後の晩餐」を述べた章ですが、そこには次のように書かれています。
 「彼ら食しをる時、イエス、パンをとり、祝してさき、弟子たちに与へて言ひ給ふ。「『取りて食へ、これ我が體なり』また、酒杯を取りて謝し、彼らに与へて言ひ給ふ『なんじら皆この酒杯より飲め。これは契約のわが血なり、多くの人のために、罪の赦しを得させんとて流す所のものなり。われ汝らに告ぐ、わが父の国にて新しきものを汝らと共に飲む日までは、われ今より後この葡萄の果【み】より成るものを飲まじ』彼ら賛美を歌ひて後オリーブ山に出ていく」また、ヨハネによる福音書15章には、キリストがぶどうの木であり、11人の弟子たちはその枝であると述べています。キリストが「最後の晩餐」で、キリスト教の教えの神髄をワインを用いて説いたことや、キリストと弟子たちとの繋がりをぶどうの木とその枝に例えていることは、キリスト教にとっていかにワインやぶどうが重要なものであるかを窺わせます。このようにヨーロッパなどでのブドウの栽培やワインの醸造には数千年の歴史があります。
 一方、日本のワインの歴史は明治時代にはいってからです。勝沼(甲州市)には多数のぶどう畑やワイナリーがあり、何といっても甲州ブドウが全国一有名です。ですから、日本のぶどうの歴史は、「甲州ブドウの歴史」からお話しすることになります。

『甲州ブドウの歴史』

 甲州ブドウは古くから甲府盆地東縁にあたる勝沼を中心に栽培され、ぶどうの植物的性格から適地がごく一部に限られた自然条件にありました。ぶどうは高温多湿を嫌います。勝沼の大部分は広い扇状地になっていて水はけがよく、昼夜の寒暖の差が大きく、年間降水量が1,000mm程度というブドウ栽培に適した環境にあります。そのため日本土着のぶどう品種である甲州種のぶどう栽培が江戸時代から行われていました。それが商品として全国的に名産品になったのは、日本橋を起点とする五街道が開け{(慶長9年(1604))}、江戸から諏訪まで39宿が甲州街道に決定され{(明和9年(1772)完成)}、勝沼宿もその中の宿駅の一つになったころからです。
 有名な儒学者である荻生徂徠(注1)は彼の「峡中紀行」に「勝沼の宿は人家多く繁盛なるは甲州街道で第一番地、甲州葡萄はこの国の名産なり」と記し、江戸を初め全国に知られるようになりました。また芭蕉(注2)は勝沼宿を通った時「勝沼や 馬子もぶどうを 食いながら」と吟じていますが、勝沼を訪れた人々が甲州ブドウの評判を全国へ広げていったものと思われます。こうした歴史を持つ甲州ブドウには、二通りの起源発生説が伝わっています。
 その1つは「大善寺説」です。約1300年前の養老2年(718)、僧行基(注3)が勝沼の地にやって来ました。彼は勝沼地区と岩崎地区の間を流れる日川【にっかわ】に沿って柏尾に至り、川岸にそびえたつ大岩石の上に静座して祈願を続けたところ、21日目に忽然と薬師如来が霊夢となって現れました。そのお姿は右手にぶどうを持ち、左手に宝印を持っていました。そこで行基はこの霊夢に従って、この地に一寺の建立を思い立ち、薬師如来のお姿を刻んで安置したのが柏尾大善寺で、「薬師如来の夢のお告げ」によるという説ですが、高僧行基にあやかって箔付けした発生説だと考えます。
 もう1つは「雨宮勘解由説」です。鎌倉時代の文治2年(1186)勝沼は上岩崎の住人、雨宮勘解由は例年開催される「石尊祭」へ参列するため、山道に差し掛かったところ、偶然路傍に一種のつる性の植物を発見しました。それは未だかつて見たことのない植物だったので、一緒にいた村人とも相談して、これを自園に栽培することにしました。そして5年の春秋を経て、そのつるは繁茂し、ついに30余の房を付けました。その年の夏8月下旬にその果実はことごとく熟し、朱紫に色づき、その味は極めて甘美であったので、彼はこの植物の繁殖方法をさらに研究し、広めたというのが「雨宮勘解由発生説」です。この方が事実に近い説だと考えます。勘解由が発見したつる性の植物は、ブドウ発祥の地である中近東地方から古代ヨーロッパ、その後シルクロードを経て中国へ渡り、奈良時代に日本に入ってきたヨーロッパ系の品種で、山野に自生しているうちに日本の気候風土に適応して現在の「甲州」になり、日本のみで栽培されている固有の品種になりました。
 しかし、現在日本各地で栽培されているその他の品種は、ぶどうの先祖といわれる「ヨーロッパブドウ」を「アメリカブドウ」に接ぎ木したものが元になっています。

注記の説明

(1)荻生徂徠

寛文6年〜享保13年(1666〜1728)の江戸中期の儒学者・思想家・文献学者。
柳沢吉保に仕えたが吉保失脚後、私塾を開き、徂徠派を形成、後に八代将軍吉宗の政治的助言者となる。朱子学は「憶測に基づく虚妄の説にすぎない」と批判し、中国の古典解釈の方法論として、「古文辞学」を確立。
吉宗に提出した政治改革論「政談」は政治と宗教道徳の分離を推し進める画期的著作で、こののち経世思想が本格的に生まれた。
赤穂事件の仇討は私論,侍の礼をもって切腹を与えるのが義士の忠義を重視したことになるとして「義士切腹論」を展開し、公論より私論を優先すれば天下の法は成り立たないと主張した。

(2)松尾芭蕉

寛永21年〜元禄7年(1644〜1694)の江戸前期の俳諧師。
蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立。
芭蕉は天和2年(1682)の天和の大火いわゆる「八百屋お七の火事」で芭蕉庵を焼け出され、甲斐国谷村藩(現都留市谷村町)の門人宅に仮寓しているから甲府盆地の国中から笹子峠を越え、群内へ行く途中、勝沼を通っているのは間違いありませんが「勝沼や 馬子もぶどうを 食いながら」はあまりに稚拙で素人っぽく蕉風の文学性が感じられませんし、文献(頴原退蔵の「俳句評釋」、暉峻 康隆「季語辞典」、尾形力「芭蕉ハンドブック」)を調べても掲載されていないことから、芭蕉の句でないと考えます。

(3)行基

天智7年〜天平21年(668〜749)奈良時代の僧。法相宗などの教学を学び、集団で関西地方を中心に貧民救済、治水、架橋などの社会事業に活躍。大仏造営の勧進により日本最初の大僧正になる。全国を歩き回り、治水事業を行ったとされ、行基開基とされる寺院も多いが、名前だけ使われたものも多くあると推測されます。

『国産ワインの歴史』

 日本に初めてワインがもたらされたのは奈良時代で遣唐使によってでした。東大寺の正倉院にはその時彼らが持ち帰ったとされるガラス製や銀製の酒杯が御物として収蔵されています。その後、日本人がヨーロッパ産のワインと出会ったのは安土桃山時代だといわれています。スペインの宣教師によってキリスト教とともに伝えられ、織田信長や戦国大名に献上されましたが、醸造を始めたのは明治に入って勝沼からです。
 明治10年代、県令藤村紫朗が、葡萄酒醸造場を設け、白葡萄酒とブランデーなどの試験醸造を始めました。これに影響されて勝沼の人々の間に、試験醸造の機運が起こりました。そして「大日本葡萄酒会社」を設立、これが山梨県における本格的葡萄酒醸造の開始といわれます。(この「大日本葡萄酒会社」の跡地が現在の「メルシャン勝沼ワイナリー」です。)
 「大日本葡萄酒会社」では早速、村内の土屋龍憲、高野正誠の二人をワインの本場フランスに派遣、ぶどう栽培と醸造技術を学ばせました。明治12年両氏の帰郷を迎え、会社は直ちに醸造に着手し、製品の販売に努めました。その結果、輸入品より著しく安かったため大いに歓迎され、一年間で売りつくすことができたということです。しかし当時の醸造方法や貯蔵方法に欠陥があったためか、変味酒を出してしまい、日本初の葡萄酒会社は明治19年に解散してしまいました。
 同社の解散と同時に、土屋氏は宮崎光太郎、土屋保幸氏らと共同で醸造を始めました。しかし、経営は困難を極め、同23年には共同醸造を廃止してしまいます。その後独立した宮崎氏は醸造用のタル、圧搾機、破砕機などの改良に努め、さらに明治26年ブランデーの製造を開始、36年にはブドウ液の製造にも進出していきました。明治20年代から30年代にかけて、醸造場が出現しましたが、34年ぶどうの価格が暴落して農家は恐慌に見舞われ、多くの工場を閉鎖してしまいました。やがて、第一次世界大戦の影響で大正から昭和にかけて好況に転じると、ぶどう栽培も醸造高も増加していきました。昭和16年太平洋戦争に突入、電波探知機に使うロッセルエン(酒石酸=酒酸ナトリウム)の採集が醸造家に割り当てられました。潜水艦のソナーにこれを使うと、周波数帯を広げることができるのだそうです。
 敗戦後、高度成長と共に醸造高もますます増加し、栽培農家も醸造家もぶどうの品質向上・品種改良や製造技法の改善に努力し、洋酒に少しも引けを取らない国産ワインを製造しています。

『横浜のぶどう』

 横浜の果樹農家もぶどうを栽培していますが、国内の主要生産地にはなっていません。山梨県が全国の生産量の1/3を占め、多数のワイナリーがある日本最大の産地です。勝沼を中心に日本固有の品種、甲州やマスカット・ベリーAが主力商品です。次いで多いのが長野県で、冷涼で昼夜の温度差が大きい内陸性気候がぶどうに適し、塩尻地区のメルロを始め、北信地区から小諸に至る千曲川流域で栽培されています。山形県も夏暑くて、ぶどうの生育期に降水量が少なく、昼夜の温度差が大きいので、内陸部の高畠、赤湯、上山などが産地になっています。

 横浜ではワイン用のぶどうは、個人の趣味として、家庭菜園で作られているかも知れませんが、商品としては全く栽培されていません。
 横浜のぶどうはもっぱら『生食』用です。露地栽培のぶどうの収穫は、お盆過ぎから1カ月間ぐらいです。
 横浜は勝沼のように栽培条件に恵まれていません。高温多湿で土壌は火山から噴出した関東ローム層(粘土化した火山灰層)のため水はけが悪く、ぶどう栽培には適さない環境の中でベト病、黒痘病(人への害はありません)という伝染性の高い病気と闘いながら懸命に「浜ぶどう」を栽培しています。「浜ぶどう」というのは、横浜ブランド農産物に認定されたぶどうの総称です。

藤稔2房
紅伊豆2房
藤稔の樹
紅伊豆の樹
 神奈川県のぶどうは伊勢原市で「デラウェア」の栽培が嚆矢とされています。横浜では昭和40年代に戸塚区平戸町で梨が作られ始め、それに関連して果樹農家の一部で「デラウェア」や「巨峰」が栽培されるようになったものの、順調には進展しませんでした。そうした中、以前からぶどうの品種改良に情熱を注いでこられた藤沢市の果樹農家であり、育苗家の青木一直氏が「藤稔」を開発されました。これを横浜で試験的にはじめた結果、横浜の地に適したぶどうであることが確認され、平成元年ごろから普及しはじめました。今ではJA横浜果樹部に属する200農家の主要品種になっています。「藤稔」こそが横浜を代表するぶどうであり、「藤稔」がなければ、横浜のぶどうは存在しないと言っても過言ではありません。

 横浜産のぶどうが市民にもあまり知られていないのは、スーパーや八百屋では売らず、直売だからです。そのため、「幻のぶどう」と言われます。品種は大粒種を中心に、「藤稔」、「ピオーネ」、「紅伊豆」、「竜宝」などです。特に「藤稔」は、直径3cm近くにもなる超大粒種です。果肉は軟らかで、果汁も豊富にあり、糖度は平均17度と甘く適度な酸味もあります。また皮離れがよくて食べやすいのも特徴の一つです。農家はその日に完熟したぶどうだけを収穫します。
 ただ「藤稔」は収穫時に雨が多いと、根からの水の吸い込みで、皮が破れるという欠点があります。そのため果樹農家は「藤稔」で培った技術をベースに、「シャイン・マスカット」や「ブラックビート」を次なる主力品種として育成に励んでいます。
 ぶどうには、「種なしぶどう」と「種ありぶどう」があります。1本のぶどうの樹から両方のぶどうを作ります(合わせて1000〜1100房)。収穫の時期をずらすことができるからです。
「種なしぶどう」は食べやすいですが、「種ありぶどう」の方がぶどう本来の味がして、糖度も高いです。
栽培面積:12ha
生産量:64ton
主な産地:港北区、都筑区、緑区、戸塚区、泉区、港南区、瀬谷区
(「横浜のぶどう」は横浜市泉区の果樹園園主へのインタビューによる)

ワインについてひとこと

 ワインはぶどうだけを原料にした醸造酒です。穀類を原料とした日本酒やビールは、米や大麦の他に水が必要で、「仕込み水」と呼ばれる水の良し悪しが出来上がりに影響します。ワインの原料がぶどうだけということは、ワインの品質は殆どぶどうの品質が決め手といえます。

 ワインは製法の違いで分類することもできますが、一般には色の違いで3種類に分けます。黒は「巨峰」、赤は「甲州、マスカットベリーA」、緑は「マスカット」が代表的な種類です。
 「白ワイン」は緑色種のぶどうを絞り、皮を捨てて汁のみを発酵させたもの。
 「赤ワイン」は濃色種のぶどうを絞った汁と皮・種を同時に発酵させます。そのため赤ワインは皮と種子にある渋みの成分が発酵されて「赤」独特の渋み(タンニン)のあるワインになります。
 「ロゼ」は赤ワインの発酵の途中、淡紅色に近くなったところで皮や種子を除いて発酵させたものですが、巨峰がその代表です。
 「赤」は樽で熟成させ、「白」はビンで熟成させるのが一般的です。だから「赤」は樽の香りがワインに浸透し、独特の風味、風合いが醸し出され、「重いもの」になります。
 「白」は寝かせることによりフルーティーな味と軽さ、落ち着いた風格のあるワインになります。

 赤ワインには「ボディ」という表現を使います。ワインを口に含んだときの重量感を表す言葉で、軽いのを「ライトボディ」、力強くて重たいのを「フルボディー」などと表現します。白ワインには甘口、中口、辛口という表現が使われます。
 白ワインはしっかり冷やして飲むのがいいのですが、より正確には辛口はしっかり冷やして、甘口は幾分冷やして飲むのがよいといわれます。春から夏にかけての暖かい季節は甘いワインより辛口のワインが口になじみます。日本酒でも甘口の冷酒というのはあまり聞きません。すっきりした辛口のワインとはいいますが、ねっとりした辛口のワインとはいいません。
 スッキリしたという言葉は辛口にかかる枕詞です。ただ赤ワインの場合「スッキリした渋み」なる表現は使われます。
 赤ワインは常温でいいといわれますが、常温では美味さがよく分らずに渋みだけが際立つようです。(ただこの常温の定義に問題があり、暗室の温度の低いワインセラーであればそれも可能ですが)従って飲む前に少し冷やして飲む。赤ワインの場合、重たいハードボディーより、幾分冷やしたライトボディーのほうがいいようです。
 赤ワインの渋みに関しては個人の好みの問題です。赤ワインはコルクを抜いてから一時空気にさらすのがよいといわれます。赤ワインには大きな広口のワイングラスが使われるのはそのような理由によるものなのでしょう。

 ワインが、良いブドウを使って、良い技術で、十分に寝かせて造られると、それなりの価格になることは納得がいきます。ワインの味の判別は、フレッシュでフルーティーなワインが分って徐々に理解できることであり、最初からワインのもつ芳醇さや渋み等を理解できる人がいたら、それはよほどの味覚の持ち主です。
 (この項の一部、ワイン通を自称する知人からの聞き取りによる)


参考文献

君嶋哲至監修 『ワイン 完全ガイド』 池田書店 2009年
太田悦信 『おとなのワイン塾』 時事通信社 2006年
『旧新約聖書 文語訳』 日本聖書協会
その他 「ぶどう」「ワイン」をキーワードにインターネット検索

終わり


 京都に行ってきました。
吉田 昭二
2009年12月18日

 
旧制三高吉田寮
 京都に行ってきました。 12月5日から二泊三日で法事(天竜寺の管長だった妻の従兄弟の3回忌)と墓参で京都に行ってきました。
 5日は時代劇映画でお馴染みの広沢の池近くのホテルに、6日は嵯峨嵐山駅前の「コミュニティ嵯峨」に泊まりました。
 法要では故人の弟子数人の読経が朗々と響き何とも言えない想いが込み上げてきました。精進落しは渡月橋と大堰川の見渡せる料亭でしたが今年は天候不順だった所為か紅葉は綺麗とは言えず残念でした。
 7日は墓参です。お墓は大文字焼きで有名な如意ヶ嶽を背景にして百万遍の智恩寺山内の塔頭寿仙院にあります。
 ご承知のように百万遍は東大路通と今出川通の交わる処で、又、京都大学の吉田キャンパスがあります。京都大学は戦前からの吉田キャンパスと戦後に開設した桂キャンパス、宇治キャンパスがあり、更に吉田キャンパスは本部構内、吉田南構内、医学部構内、薬学部構内、及び北部構内に別れています。
 墓参の後京都大学に在学する孫と学食で昼食後、60余年の昔私が学び且つ遊んだ旧制三高の後身の吉田南キャンパス内を散策したのですが近代的ビル群の片隅に昔の儘の吉田寮を発見し感激しました。60余年の昔この寮に住んで弊衣破帽の青春を謳歌していたのです。正に廃屋と言っても良い様な佇まいでしたが未だに現役で学生が居住している由で又々吃驚しました。

平成21年12月15日  吉田 昭二


 往復書簡「モコちゃん物語」
永井 藤樹・後藤 雄二
2009年9月10日

永井藤樹と後藤雄二の往復書簡による「モコちゃん物語」

後藤 雄二さん

フェスタが終わって、瞬く間に10日もたってしまい、今日は重陽の節句。
こんなに涼しくては、残暑お見舞いも申せません。
後藤さん お元気ですか。
ももちゃんも元気ですか。

後藤さんは、本当に文章の達人。よく ああいう文が すらすらと出てきますね。
本の読み方が、量だけでなく 質的に 私などとは違っていて
その上 本来の文才が支えているのだと思います。

『私淑の人』をみなさんと同じように、毎回読ませてもらっています。
次回が最終回ですか。終わったら、どうでしょうか。
この小説の執筆動機というか、背景というか 新聞の連載小説が終ると、作者がコメントを出しますね。
ああいったものを、後藤さんも出されたら、読者の理解も深まります。
無理にとは申しません。後藤さんのお考えでいいです。私への釈明も要りません。

1週間ほど前、○○さんにメールしたのですが 返事がありません。
仕事が忙しくて、夏バテしたのではないか心配です。
もしかしたら、遠距離恋愛がうまくいっていないのかも。
私が 『遠距離恋愛は距離の二乗に反比例する』から 遠くて思うに任せない時もあるから、
それを考慮して置くようと いらぬお節介をやいたので この点でも 心配です。
何か彼の近況 知っていたら教えて下さい。
それでは また。
暑さもぶり返すでしょうから、身体に気を付けてください。

9月9日 永井 藤樹

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永井 藤樹さん

後藤です。永井さん、嬉しいメールを頂戴しまして、ありがとうございました。
うちのモコちゃんのことまでお気にかけてくださり、感謝申し上げます。
庭に面した軒下の樋の中にスズメバチの巣ができたらしく、モコちゃんはそのスズメバチに向かって吠えてばかりいました。戦いに挑んでいるかのようでした。
市役所からの派遣で業者の方々がその巣を処理してからは、のんきに庭で遊んでいます。
おばさん(塾長先生の奥さん)は額をスズメバチに刺され、病院に駆け込みました。
そんな夏ももう終わろうとしています。

私の小説のご感想もいただき、嬉しいことでした。10月の初旬に最終回を載せていただきますが、そのあとに、放友会のメールで、小説を書いた動機や後日談などのお話をしてみようと思いました。
永井さん、貴重なアドバイスをいただき、ありがとうございました。

永井さんのメールを拝見し、いま、○○さんに電話をかけてみました。
ものすごく元気な様子でした。恋愛のことなど立ち入った事は訊きませんでしたが、毎日忙しく仕事をしているようでした。永井さんにご連絡しなくちゃ、と○○さんは恐縮していました。

今日の9月9日は、ビートルズのアルバム13枚プラス1枚が、デジタルマスター使用の最新サウンドでCD化され、発売されました。
私が中学生の頃、13枚のオリジナル・アルバムを手に入れるのは夢のまた夢でした。
おこづかいを貯めてやっと1枚のLPを買い、それを何度も聴きました。
今日、仕事へ行く前に、CDショップへ寄り、最新リマスター盤を2枚だけ買いました。
「ヘルプ!」、「レット・イット・ビー」というアルバムです。
この2枚は私が中学生の時にわずかに持っていたアルバムです。
早速聴きますと、音の良さに驚きながらも、おおいに郷愁にひたりました。
私がビートルズに心酔していた中学生当時も、ビートルズはすでに解散していましたが、それから35年、いまだにビートルズは、人々の心をつかみ続けていますね。
ついつい、いろいろとおしゃべりしてしまいました。失礼いたしました。
また近いうちに、永井さんとお会いし、歓談できますことを楽しみにしております。
では、毎日をお元気でお過ごしください。

9月9日 後藤 雄二

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後藤 雄二さん

木村さんが可愛がっていた愛犬の名前が「ももちゃん」だったし
ご近所の雄犬も 優しい性格で「もも、もも」と呼ばれて可愛がられていました。
むかし、放友会の会計をされていた女性が飼っていた猫も「ももちゃん」でした。
彼女は後年 「ももちゃん」を連れて、お嫁に行ってしまいました。
そんなことで、後藤さんの愛犬も「ももちゃん」だと思い込んでしまいました。
ごめんね「モコちゃん」。名前を間違えるなんて、ほんとに失礼です。

モコちゃんは、男の子なんでしょ。
スズメバチから 塾長先生の奥さんを守ってあげなければ 「騎士道精神」に反しますよ。
でも スズメバチになると 人間でも命取りになることもあるというから
モコちゃんは警告を発して 大好きな雄二お兄ちゃんや おばさんに知らせたのですから
立派に「騎士の役目」を果たしましたね。

○○さんへの連絡 ありがとうございました。すぐに彼からメールが入りました。
私が定義した『長距離恋愛は距離の二乗に反比例する』法則は成り立っていないようなので、安心しました。
頼りがいのある男性だと見込まれるよう 頑張って欲しいとエールを送りました。

追伸
以前 木村さんのお宅へ伺ったことがあります。
その時 ももちゃんはソファーの上でお休みでした。
だから ももちゃんと ご対面は かないませんでした。
あの時が ももちゃんに逢った最初で最後でした。
その後、ももちゃんは亡くなり、木村さんのももちゃんへの追悼文は涙なしでは読めないものでした。
ももちゃんが まったく家族の一員で 可愛がられ、大事にされ、木村さんご家族も ももちゃんも
如何に幸せだったか、木村さんのお人柄あふれる追悼文でしたね。

9月13日 永井 藤樹

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永井 藤樹さん

後藤です。永井さん、お心配りいただくメールをありがとうございます。
モコちゃんのことをお書きくださり、嬉しく思いました。永井さん、実はモコちゃんは女の子です。
でも、一目見て、男の子のような顔をしています。
おすわりやおすましやゴロン(赤ちゃん言葉みたいですね)をするときは、さすがに女の子らしいです。
吠える声や走る姿が男の子みたいですので、家の前を通る近所の子どもたちに「ゴン太」などと呼ばれています。

今月末は、皆様の一泊研修ですね。私は仕事の休みがとれず、参加できません。
9月は祝日が多く、簡単に休講にできないのです。最近の小中学生はそれほど休みを喜びません。
以前は休講のお知らせを出しますと、大喜びしてくれたものですが、この頃は、年末年始やお盆の休講のお知らせにも、「その日は学灯舎に来たかったのにな」などと言う子がいます。
テスト前は日曜日の補習を希望する子もいました。
私が居ませんと、教室は使えませんので、日曜出勤いたしました。
勉強が好き、というよりも、今の子どもたちは拠り所が少ないのかもしれません。

一泊研修は、皆さんとの交流が深まりますね。
おおいに楽しまれて、よきご旅行となられますよう、お祈り申し上げます。
また、お会いできました日には、私との交流もどうぞよろしくお願いいたします。

では、毎日お元気で、よき秋の日々をお過ごしください。

9月15日 後藤 雄二

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後藤 雄二さん

9月9日に戴いたメールで 音楽について ご返事していませんでした。
私は音楽に詳しくありません。どこかで お話ししたことがあるかもしれませんが
入社したばかりの頃、勤労者福祉の一環として、勤労者に安く音楽を聴かせる「労音」がありました。
これはクラシック音楽が主体でした。
田舎のポッと出の 右も左もわからない私に どういう訳で声をかけて下さった職場の先輩に
連れられて 「労音」主催の音楽会に行きました。
初めが大切ですね。クラシックから入ったから 私の集める音楽CDは、クラシックです。
ブラームス、ベートーベン、メンデルスゾーン、チャイコフスキーの4大『ヴァイオリン協奏曲』は
特に チャイコフスキーの曲は とてもロマンティックです。LPは磨り切れるくらい聴きました。
その後、長年探しまわっていた ヴァイオリン ハイフェッツ、シャルル・ミンシュ指揮、
ボストン交響楽団のCDを 偶然見つけた時は 飛び上るほどうれしかったです。

残念ながらビートルズは 私より若い世代が夢中になっているのを 遠目に見ていました。
でも 「レットイットビー」や「イマジン」「イエスタディ」など歌詞はわからなくても
とても気持ちの良い曲です。 放送大学に入学して、ラジオ授業用にONKYOのコンポを準備し
今は音楽CDもそれで楽しんでいます。

『私淑の人 6』で「大学祭で新平と純、節子に声をかけてきた」光村 知子を登場させています。
そして「特に目立つ存在ではない。目の大きな肌の白い女性である」と、彼女の印象を書いていますね。
「目立たない存在」とは 「控えめ」という意味にも取れますが一般的に日本人で
「目が大きくて、肌の白い女性」は 控えめにしていても 目立たないはずはありません。
新平は知子を素敵だと思うようになり、何度となく足をぶつけあやまるとその度に
『いいんですよ』と微笑んだとも書いています。
だから次回では 光村 知子は 新平にとって 特別な存在になると予想していますので
特に 最終回を期待しています。

またまた モコちゃんに謝らなくてはなりません。
男の子にしちゃて。レデイに対して 本当に失礼です。
モコちゃんが人間だったら、きっと男の子を泣かしてしまうくらい元気な女の子でしょう。
モコちゃんに よろしく。

9月19日 永井 藤樹

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永井 藤樹さん

後藤です。永井さん、心嬉しいメールを頂戴し、ありがとうございました。
音楽のお話、とても楽しかったです。クラシックをよくお聴きになられるのですね。
チャイコフスキーの「バイオリン協奏曲」がお気に入りとのこと。
私もバイオリンの音色が好きなものですから、嬉しくなりました。
私はクライスラー派です。クライスラーばかり、ずいぶんたくさんCDを持っています。
なかでも、イツァーク・パールマンの演奏が大好きです。
クライスラー自身の自作自演のCDもよく聴きます。
パールマンはプロ中のプロですが、作曲者であるクライスラーの音色は、上手いというよりも素朴であたたかみがあります。
いずれにしましても、音楽の醍醐味を堪能できます。

ビートルズのリマスター盤は、音質が素晴らしく、歌声の呼吸まで聞こえてきます。
私がビートルズに夢中だったころは、すでにビートルズは解散していました。
仲間内で最も人気があったのは、カーペンターズでした。
私はカーペンターズもビートルズと同じくらい好きでした。
永井さんが、「『レットイットビー』や『イマジン』『イエスタディ』など歌詞はわからなくても
とても気持ちの良い曲です」とおっしゃること、私はまったくそのとおりだと思いました。
心から気持ちが良い、と思えることが音楽の素晴らしさだと思います。

永井さんは、ONKYOのステレオで音楽を楽しまれるのですね。
高校生の頃、ONKYOは高級なコンポの代名詞でした。オーディオは本当に魅力がありますね。
最近のたやすく手に入るものはすぐこわれますが、いいものは家宝にもなりますね。

『私淑の人』を読んでくださり、ご感想を頂戴し、ありがとうございます。嬉しいです。
この小説は、フィクションも少しはありますが、ほとんど実話です。
先生のことも友達のことも、さまざまな出来事も、自分の日記を材料に書きました。
物語の展開が自然になるように、都合のよい作り話もないわけではありませんが、私は自分で読むたびに、当時の空気感をキャッチします。
大学卒業後に書き始めて、30歳までに何度も書き直しました。
永井さんに「『目が大きくて、肌の白い女性』は目立たないはずはありません」とご指摘いただき、文章表現が稚拙だったなあ、と感じました。
光村知子のモデルになった友人は、目が大きくきれいで、素敵な人でした。
立原道造の研究をしていました。とても清楚な人でした。
私は4回生になるまで、彼女のことを知らなかったのですが、彼女は私のことをとてもよく知っていたのです。
国文学科は男性が少ないので、私たち男性軍は目に付きやすかったのかもしれません。

10月になりましたら、関根さんにお願いして、最終回を載せていただきます。
またどうぞ是非お読みになってください。
その後、書いた動機や後日談、また、吉沢先生の色紙のことに興味を持ってくださる方がおられますので、そのようなお話もメールでさせていただきます。
永井さん、いろいろとお気にかけてくださり、感謝申し上げております。

モコちゃんに永井さんのお言葉を伝えて(?)おきますね。
昨日は淋しかったのか、私が帰宅すると、私の脚にぴったり身体をくっつけてきました。
しばらく離れませんでした。ワンちゃんにもいろいろな日常があるのですね。
では、どうぞお元気で楽しい毎日をお過ごしください。

9月19日 後藤 雄二


 横浜にちなむ文学者の足跡
木村 勝紀
2008年6月10日

JR石川町駅の南口改札を出て、中村川沿いを右に歩けば元町通り商店街である。商店街のほぼ尽きようとする辺りを右折してS字型の坂を登りきると外人墓地に行き着く。天気がよければショッピングにそぞろ歩きに大勢の人並みで賑わうところである。外人墓地の正面から港に向かってまっすぐ歩けば突き当りが「港の見える丘公園」である。展望台から左に改装なった氷川丸が見え、正面にはベイ・ブリッジが相変わらずの端正な姿を見せている。展望台の階段を戻るように降りて左側に目をやると大仏次郎記念館が見えてくる。

<ホテルで名作を生んだ大仏次郎>

大仏次郎は明治30年10月に横浜市英町(中区英町)10番地で生まれ、7歳の春までそこですごした。その後鎌倉に住むようになってからも、横浜を訪ねることが多く、とくに昭和6年から昭和10年ほどの間は、ホテル・ニューグランドを仕事場として多くの話題作を執筆した。その仕事場は3階の一角にあり、銀杏の並木を通して出船、入船がよく眺められたという。時代物から現代物、さらに明治開化物に手を染めるのもそのころからだ。「霧笛」「薔薇の騎士」「日蓮」などの長編のほか、「鞍馬天狗」の連作もそこで書かれ、その仕事場は「鞍馬天狗の部屋」と呼ばれたという。「霧笛」(昭和8年)は、明治10年代の横浜を舞台に、居留地で勢力をもつ英国人のクーパーと、ボーイをつとめるスリあがりの千代吉、それにクーパーの妾お花の交渉をからませた開化物で、千代吉の鬱屈した感情に執筆当時の若者の心情が仮託されていた。また「花火の町」(昭和11年)は落魄した士族の娘お節と、会話を学ぶために外国人の家に住み込んでいた一青年との愛をとおして、時代の流れにおき去られた者の意地や哀しみを描いた作品だが、いずれにも開港地ヨコハマへの郷愁がただよっていた。大仏次郎は戦後も「幻灯」や「赤屋敷の女」などを発表し、横浜への懐旧の情を託している。

<不動の大衆作家吉川英治>

吉川英治は明治25(1892)年8月に神奈川県久良岐郡で生まれた。父は小田原藩の下級士族だったが、牧畜会社の経営に失敗し没落した。そのため英治は、少年時代から浮き沈みのはげしいくらしを経験し、学校を中退して印章店の徒弟、印刷工場の少年工、税務監督局の給仕、横浜船渠の船具工など、各種の職業を転々とした。そして作業中に足場板もろともドックの底に落ち、瀕死の重傷を負ったのを機に、かねてからの念願だった上京を実現する。やがて川柳の世界に入り「大正川柳」の編集に従うと同時に諸雑誌の懸賞に応募、毎夕新聞記者を経て文筆で立つようになる。吉川英治は「キング」創刊号から「剣難女難」を連載して注目され、「鳴門秘帳」で大衆作家として不動の地位を築くが、いわゆる伝奇小説に満足せず、昭和5〜6年ごろから模索をはじめ、やがて「宮本武蔵」にひとつの境地を示すが、その転機となったのが現代小説の「かんかん虫は唄う」(昭和5年)であった。また戦後書いた「忘れ残りの記」(昭和30〜31年)は、自伝的回想でもあり、明治後期の横浜の風物が、少・青年時代の記憶とあわせて活写されていた。

<横浜に生きた作家たち>

獅子文六の生家岩田商店の店舗は、水町通りにあった。ものごころつくころ、内地雑居が施行され、居留地以外に外国人が住むことを許された。町では提灯行列が催され、岩田商店でも祝賀会を開き、酔った店員の中には、住居までおしかけ、万歳を連呼するものもあり、その光景を文六は幼い記憶につよく刻み込んでいた。戦後発表した「父の乳」(昭和40〜42年)の中に、その横浜での見聞が書きとめられており、岩田商店の二階建て洋館の入り口から海が眺められ、山手の緑や英国領事館の旗も見えたという。

山本周五郎と横浜の結びつきは、7歳の時、横浜の久保町へ移住してきてからで、西戸部や西前小学校に学んだが、戦後本牧元町237番地に転居し、昭和23年からは近くの「間門園」を仕事場とし、死に至るまで動かなかった。そして「樅の木は残った」「青べか物語」「虚空遍歴」「ながい坂」などの傑作をのこした。

横浜みなとみらい21
また直木賞のご本尊である直木三十五は晩年富岡に本宅を構えた。木挽町の文春クラブに腰をすえている時間の方が多かったが、その縁で墓所は富岡の長昌寺にある。ペンネームの直木は、本名の植村宗一の植の字を二つにして直木とし、31歳のときに、その年齢をとって直木三十一とし、以後、年毎に数をふやし三十四をとばして三十五と称した。直木三十五の功績は、大仏次郎とともに時代小説を知識階級の嗜好にまで引き上げたことである。43歳で永眠したが菊池寛はその友情から、芥川賞とともに大衆文学の新人賞である直木賞を昭和10年に設定し今日に至っている。

榊山潤は吉川英治より8年後に、同じ久良岐郡中村町で生まれ、早くから外人商社などで働いた。徳田秋声に師事し、小市民の虚無的な日常を描いて話題を呼んだが、第2次上海事変での見聞を機に、歴史の激動に眼を開かれ、二本松落城を題材として新潮文学賞をおくられた。晩年は直木にちなむ富岡ですごした。

その他に横浜にちなむ作家たちには、有島武郎、有島生馬、里見〓【とん】の三兄弟や長谷川伸、島尾敏雄などなど多くをかぞえるが長くなるので別稿に譲りたい。

文責:木村勝紀

参考文献:「横浜の歴史」横浜市市民局市民情報室広報センター発行


 放送大学、神奈川放友会に入会して
松崎 達信
2007年9月30日

19年1月、ケーブルTVの番組ガイドを見ていると、2月より放送大学のチャンネルが追加される事と大学の概要が書かれていたので、入学案内を取り寄せてみたら、信じられないほど多数の科目のあることが判った。
以前よりオカリナを習っており、音楽理論について判らない事があると図書館で調べていたが消化不十分で気になっていたので、教科書とTVの両面から勉強できるのは好都合だと思って入学した。
「入学者の集い」に参加した後で各種のサークルの紹介があり、説明者のレベルが高い歴史のある本サークルに入会したところ、予想に違わず本会のメンバーは多士済済の方ばかりで、諸兄姉に教えて頂きながら楽しい生活を送って半年が過ぎようとしている。
放友会のホームページに『文芸研究会』があり、諸先輩の優れた作品が載っているのを見て何か書きたくなったので、及ばずながら私の作品を以下に書いてみました。

〔現代俳句〕

以前、現代俳句の創始者の娘さんご夫妻と知り合いだった関係で、現代俳句を作っていました。

ビルの地下 落葉一枚舞いあがる
かわいた街 ことばが音もなく爆発する
いつか見た麦秋の道 陽炎を踏んでいる
街角にバブルの落とし子 風花舞う
月曜日 靴がのぼって行くビルの階段
梅雨曇り 長く尾をひく空車の影
春一番 かわいた沈黙投げ棄てる

〔短歌〕

現代俳句では、言葉足らずで想いが十分伝わらない気がしていたので万騎が原短歌会に入会して短歌を作りました。

元日の赤き西の陽頬に受け 金門橋を幼孫歩む
春一番吹き荒れし朝乾きたる 土の中より福寿草見ゆ
畝傍越え明日香の里に入り来れば 塚もキトラも霧雨の中
入日受け妖しく開く夜顔に 立ち寄りて名を問う人多し
湿原を越えて雹降る尾根越えて 砂礫に赤きコマクサに遭えり
髪赤くピアスきらめく娘等と カンバスに向き絵筆を取りぬ
オカリナ吹く我が肩越しに髪の香と 君の歌声揺れてとどまる

〔俳句〕

季語や決まりが多くなじめなかったのですが、数多くの愛好者を擁している分野なので勉強を始めたところです。

三殿台 遺跡にあわく 虹立ちぬ
梅若の 来し方哀し 夏隅田
百花園 緑陰囲み 句碑の群
空澄みて 朝日に映ゆる メダカの子
酔芙蓉 赫き球にて 待ちいたり

〔詩〕

遥か昔、何か書いていた様な気がします。プレーバック50年。

「大雪」

あれから50年、君は覚えていますか、あの雪渓を
天人峡から登り羽衣の滝を見た時のあの感動を
旭岳の頂上から、一本の道がお花畑を左右に分け細く細く伸びていたのを
ガスが一面に立ち込め、途方にくれたあの時の事を
黒岳の山小舎が見えた時に感じた、生きていることの喜びを
山小舎の朝の雪解け水の冷たさを
それらはみな、雌阿寒岳で見たブロッケン現象と同じ幻だったのですか
貴女は憶えていますか、あれから50年たっていることを


 福沢諭吉と麻布山善福寺
木村 勝紀
2007年6月29日

 福沢諭吉は紹介するまでもなく有名ですが、最近になって「福翁自伝」を読み、福沢諭吉の眠る「麻布山善福寺」を訪れましたので、エッセイにまとめることにしました。

福沢諭吉のこと
 福沢諭吉の活躍分野はなんと呼べばよろしいのでしょうか。政治家ではなく、実業家でもなし、学者でもありませんね。啓蒙思想家、教育者とでも呼べばよろしいのでしょうか。慶応義塾の創始者だけでも通用しますね。
 福沢諭吉は、天保5年(1834年)12月12日に生まれて明治34年(1901年)2月3日、67歳で死去となっています。豊前中津藩の下級藩士の子ですが、実力で世にのしあがった人物です。大阪で漢学を学び、長崎で蘭学を学びます。のちに大阪の緒方洪庵の適塾に入門して蘭学の勉強を続け、塾長となります。横浜で蘭語の役立たないことを痛感して英学に転じます。
 咸臨丸による渡米をはじめ、たびたびの洋行により西洋事情に通じます。幕末から明治にかけて多彩な啓蒙活動を展開して、日本近代化に多くの足跡を残したというわけです。教育者として慶応義塾を創立し、「学問のすすめ」「西洋事情」「痩我慢の説」など数多くの著作をものし、終生官途につくことを嫌ったことでも知られています。

親鸞聖人像
麻布山善福寺のこと
 さて、その日は梅雨の合間を縫って快晴に恵まれ、真夏を思わせるほどの暑さでした。放送大学同窓会のお仲間と一緒に港区麻布の善福寺を訪れました。
 この善福寺に福沢諭吉が眠っている(福沢諭吉の墓は撮影禁止)わけですが、六畳敷きほどの規模で質素な佇まいでした。戒名は「大観院独立自尊居士」と如何にも福沢諭吉らしいものでした。
 この善福寺は他にも数々のゆかりで名の知れた古刹なのでした。日米修好通商条約が結ばれた安政5年(1858年)の翌年から明治8年(1875年)まで初代アメリカ公使館となったことでも名高く、境内にはタウンゼント・ハリス公使の記念碑が立っていました。また、寛喜元年(1229年)、流罪地の越後から京都へ戻る途中の親鸞聖人が善福寺を訪れた際、時の住職了海上人がその高徳さに深く感銘し帰依したといい、境内には親鸞聖人の像(写真:親鸞聖人像)がたっていました。その親鸞聖人が寺を去るとき、境内に杖を突き立てると、杖から根が生えて芽を吹き、枝葉を伸ばし今日に至って幹周10.4mという巨大な銀杏として現存していたりします。そのほか弘法大師ゆかりの「柳の井戸」があり、今でも湧き水がチョロチョロと流れていたりします。

福沢諭吉埋葬秘話のこと
 福沢諭吉は、慶応義塾三田キャンパス内に居を構えていたため校内に彼の終焉の地を示す石碑が設置されていますが、最初の埋葬地から現在の善福寺へ改葬の際、遺体がミイラ化して発見されたそうです。学術解剖や遺体保存の声もあったそうですが、遺族の強い希望でそのまま荼毘にふされたといいます。

お墓を訪ねると思うこと
 古今東西、歴史上の人物の物語を読んでは感激し、神社仏閣や墓地を訪れてはその業績を偲びます。しかし、お墓の前でその人々と対面するときにはいつも一抹のむなしさを感じてしまいます。人の一生は葉の上の露のごときもの、ひと風吹けば地に落ちて人知れず土に滲み込まれておしまい。どんなに歴史に名を残しても死んでしまったら同じ運命を辿ります。年年歳歳忘れ去られて行きます。

 人は生きているうちが華ですね。華とは現実。現実は喜怒哀楽のるつぼ。良いことばかりではありませんが、折角なら幸せを実感する時を多くしたいものです。幸せとは心が満たされていること。何事であれ生きる目標を持つことが大切であり、目標に向かっているときに心が満たされていることになるのでしょうか。福沢諭吉のゆかりの地を訪ねて、またもやいつもの感慨を覚えてしまいました。


 小説家・島尾敏雄
木村 勝紀
2007年6月7日

 恥ずかしながら私は、小説家・島尾敏雄の名を知りませんでした。あるキッカケでこの島尾敏雄が弘明寺(大岡町)に縁があることを知り興味を持ちました。

 彼の初期の作品集である「幼年期」に収められた「原っぱ」と題する小説の一節に弘明寺界隈を描写する箇所があります。

 「停留所まで二丁ばかりである狭い鎌倉街道の両側には又狭い道にふさわしいのきの低い平屋建の商家が櫛比している。散髪屋もあれば金物屋もあり、瀬戸物屋も自転車屋も下駄屋も薬屋も更にトンカツ屋さへある。それ等の家々の裏側はそれぞれ雑草の茫茫とした草原が眼を遮る赤土の崖の所迄続いている」。

 彼は小学校3年生のころから、一人で小冊子を作り始めるなど「書くこと」に早熟だったそうですが、この作品が出版されたのは昭和18年(1943年)といわれます。26歳の時、それまでに書き溜めた作品の中から12編を選び、一冊の本にまとめたのが、この「幼年記」です。島尾敏雄は大正6年4月18日生まれですが、6歳から8歳までの幼少期をここで過ごしたといいます。短い期間ながら弘明寺での幼い記憶はよほど鮮烈であったのでしょう。
 こんな一節もあります、

 「誰もがきっとそうであろうけれど、幼い日々を思う時の、胸に覚える感慨には、何ともいいがたいものがある。ある時には、他者の介入を許さない神聖な思い出として、またある時には、一時でも意識の中から消し去りたい恥ずべき思い出として。しかし、いかなる思い出であろうと、それらは心の奥底に永遠にしっかりと刻み込まれている」。

 彼は後年、
「私の小説の出発点は横浜の記憶に根ざしていたし、又もともと私の記憶が横浜の環境を離れてはその源泉を見出すことができない…」
と述懐していたといいます。

 確かに誰しも幼いころの思い出は、いつまでも鮮明で甘く酸っぱくほろ苦いものとして記憶に残っていますね。

 島尾敏雄は、数奇な人生とともに文学界では名の知れた優れた小説家だったことが分りました。「新潮日本文学辞典」からプロフィールを紹介してこのエッセイを閉じたい思います。

<島尾敏雄>
 大正6年4月18日〜昭和61年11月12日(1917年〜86年)小説家。横浜生れ。幼いとき父母の故郷の福島県相馬郡にも滞在して病身を養った。父の絹織物輸出業が関東大震災の影響をこうむり、神戸へ移った。神戸一商時代にルソン島を旅行し、阿川弘之らの「こころ」に参加。九大法文学部経済科に入学、東洋史を専攻。昭和18年、私家版「幼年記」を出版する。同年秋、繰上げ卒業、海軍予備学生となった。第18震洋隊(海の特攻隊)指揮官として部下と共に奄美群島で待機、島民から神様として尊敬され、素封家の娘大平ミホと熱烈な恋愛をした。昭和20年8月13日に発動命令が下ったが、発進命令のないまま15日の敗戦を迎える。この体験は、島尾の生涯を決定した。
 9月復員、神戸に戻り、翌年、ミホと正式に結婚。三島由紀夫らと同人雑誌「光耀」を発行。特攻隊体験を描いた「孤島夢」を発表。
 神戸山手女専、神戸外大の講師をつとめるなどしながら数々の作品を発表。第1回戦後文学賞を受賞。27年に妻子と東京に移住し、夜間高校講師をしながら作家生活。愛人ができたことを知った妻が神経症を病む。30年に妻の故郷奄美大島へ移住。カトリックの洗礼を受ける。「われ深きふちより」「死の棘」「日のちじまり」等の病妻ものの短編集が読者を広げ、魂を揺すった。後に「死の棘」で読売文学賞と日本文学大賞を受けた。57年特攻隊志願までを描いた「湾内の入江で」により川端康成賞を受賞。卓抜な観点と緻密きわまる観察を作風としたが、58年鹿児島市郊外に移住後終焉を迎えた。

 私の記憶になかった小説家の名前が、雷鳴のごとく飛び込んできたのでした。


 木母寺と向島百花園
小澤 節子
2007年6月18日

 “木母寺”は、源頼朝、太田道灌、徳川家康等貴人が参拝したという大変由緒ある寺院なので、私は参拝にためらった。(庶民だからね)

 “梅若丸”を比叡山に(わずか7才で)修学に出す母の心の強さ(かわいい子には旅をさせよ)は、何だったのだろうか。息子は、出発を喜んだのだろうか? たった5才で父を失い、2年足らずで母との別れを子はどう思っていたのだろうか?

梅若権現絵巻
 修学中の梅若丸は、家を出た時に心に描いていた比叡山の生活とのギャップに悩んだのではあるまいか。山僧の争いや“今で言うイジメ”に、深く心が傷付いたのでしょう。仏教界にも“イジメ”や“ネタミ”があったのか? 今でもあるのか? 比叡山での修学中途で逃れる程に、辛かったのか? 今の時代ならば携帯やパソコンで心の友に愚痴って、スカーッとした気持で又、修学を続けられるであろうが、梅若丸は、一人で深く悩み、悲しみ、ただひたすらに山を下った(その時の心は、早く母に会いたかったのか、しかし、母元へは向かってなかった)のであるが災難が待っていた。人買いに欺かれたのだ。この世に神様、仏様はおいでではなかったのか? なぜ? 助けてやらなかったのだ。仏となった父惟房もなぜ我子梅若丸を助けなかったのだよ。神に願ってやっと授かった我子ではないのか。それも5年ぐらいしかいっしょに生活できなかったではないか。天上界から助けてやっていたらば、このような“木母寺”は残らなかったし、また「梅若権現御縁起」も書き物として残らなかったよネ。
 梅若丸親(母)子が再会できずに(母親も再会を信じてはたせず)梅若丸が一人旅立って(母を残し、会わずに)悲劇として終わらせたのは、父惟房だったのかもネ。後々の人々に息子“梅若丸”が短い人生ではあったが、懸命に生きてきた事を伝えたかったのではないか? “吉田家”が跡絶えてしまったのを悲しまずにいられるために、後世の人々が参拝してくれる事が、“吉田家”を守り続けてくれると思って………!

 向島百花園は雨上りの後で園内の緑がヒトキワ鮮やかで、“フィトンチッド”のシャワーを全身に浴び、ますます元気になりました。花は少なかったが(大好きな紫陽花の事です)木々の緑がすばらしく気持は最高です。
 世界中にこの緑が増え、地上の楽園に相応しい、真の平和が来る事を願っています。明日では遅いよ。“温暖化”を皆でまじめに考えようネ。

 今回も又、すばらしい時を過ごさせて頂きありがとうございました。会長さん、幹事の方々、大変おせわになりました。皆様方からすばらしいオーラをいっぱい頂き、幸せです。ありがとうございました。


 初めての俳句、初めての句会
和井 良樹(ペンネーム)
2007年6月2日

 友人から「ホームページに俳句を投稿してくれないか」と頼まれたのがきっかけだった。「よっしゃ」と気軽に引き受けた。「季語をいれて五七五で作ればいいんだよね」と早速、ペンを取ったがさっぱり浮かんで来ない。とっかかりを探すためにインターネットで俳句の頁を検索した。結構いろいろあって入門講座のようなものもある。「俳句は感動したことや感動とまでいかなくてもはっと感じたことを句にする」と書いてある。「なるほど」と納得し、再度、ペンを取った。しかしやっぱり駄目。どうも、これまで新鮮な感動や驚きを感じる生活をしていなかったんですね。
 諦めかけていたとき、「昔、同僚だった女性が銀座で句会をやっているので覗いてみないか」とくだんの友人が言ってきた。「取りあえず見学するよ」と返事をしていたが、その女性からメールが来て「折角なら自分の俳句を持ってきたほうが楽しいですよ」と書いてある。直前に四万十川に行っていたのでその情景を思い出して何とか五句をでっち上げた。
 当日の句会参加者は13名。参加者はまず自分の句を短冊一枚に一句ずつ無記名で記入し世話人に提出する。世話人は集まった短冊を同一人の句が固まらないように並べ替えて五枚ずつにわけ参加者に配る。参加者はその短冊の句をB5の清記用紙に五句ならべて書き写す。次にその清記用紙を順番に手渡しながらその中で良いと思う句を五句選ぶ。各人の選句が完了したら順番に発表する。自分の句が選ばれたら名乗りを上げる。
 当然のことながら私の句はさしたる人気もない。何人かは選句してくれたが殆ど呼ばれることもない。しかし、全く初めての作品だし選句してくれる人がいただけでも感動ものである。参加者が13名なので65句が投句されたわけだが、各人はそのなかのベスト5を選んでいるわけで、選句に名前が出るということは大変なことなのである。
 全員の選句が終わると、世話役がそれぞれの句を一句ごとに振り返る。選句した人に選句理由を発表させる。「春らしい情景で共感した」などと適当なことをいっておく。ベテランの人は、「季語が付きすぎている」などと専門的なことをいっている。更に、世話役が「この句はここを直すともっと良くなりますよ」とか、「のどかは春の季語だから春の川という季語と重なっていますよ」などと注意してくれる。なるほどこれは勉強になりますね。
 終わると近くの居酒屋で二次会があった。ベテランの人たちが「俳句は面白いですよ」とこもごも推奨する。「はじめて作って3句も選ばれるとは大したものですよ」「普通は無選ですよ」などとおだてる。この年になると疑い深くなっていてそのようなおだてにはなかなか乗りにくいのだが、正直な感想は「句会は刺激があって面白い」であった。自分の句が選ばれると何となく嬉しい気持ちになる。選句したらその理由を問われるので、それなりに理屈の通った話をする必要がある。結構、緊張感と達成感が味わえるんですね。
 何の気なしに始めた俳句だったが、句会の刺激に惹かれて今のところ続いている。


 東京文学散歩 千駄木・根津
木村 勝紀
2007年5月16日

写真1
写真2 永井荷風の碑文
写真3 「我が輩は猫である」
 その日は快晴であった。東京の地下鉄千代田線「千駄木駅」を降りて階段を上りきると、そこはもう不忍【しのばず】通りだ。不忍通りを根津方面に戻って最初の信号を右に曲がると、そこが「団子坂」(写真1)である。
 千駄木、根津、少し足を伸ばして本郷辺りまでは文学者ゆかりのスポットも数多い。「団子坂」を登りきって左側角にあるのが森鴎外の旧居跡「観潮楼」だ。

 「観潮楼」は、森鴎外が明治25年(1892年)に30歳で引っ越して以来、大正11年7月9日に60歳で亡くなるまで過した旧居である。ここは本郷台地の東端にあり、当時は谷中、上野山そしてはるか東京湾が眺められたといわれ、「観潮楼」と名付けたという。

 ここで鴎外は、「即興詩人」「ヰタ・セクスアリス」「青年」「雁」「阿部一族」「山椒大夫」「渋江抽斎」などの代表作を次々と発表した。この旧居跡は現在「文京区立本郷図書館鴎外記念室」として一般公開されているが、規模は縮小されこぢんまりした施設となっている。図書館には遺品や直筆の原稿など鴎外の生涯と業績を示す展示品があり、小さな庭園には鴎外が愛したといわれる沙羅の木が植えられていた(写真2 永井荷風の碑文)。

 「観潮楼」から武家屋敷町の面影を残す藪下通りを根津方面に下り、小学校の校庭を左に見て右折、突き当りを左へ300mほど行くと塀の上を猫が歩いている(写真3)。この猫の銅像は、もちろん「我輩は猫である」のモデルとなった夏目家の飼い猫である。ここで夏目漱石は約4年借家住まいした。ここは「我輩は猫である」の舞台になったということで通称「猫の家」と呼ばれている。ここで夏目漱石は「坊ちゃん」「草枕」も発表している。

 「猫の家」をあとに根津方面に歩を進め、日本医科大学、同付属病院の横をすり抜けると根津裏門坂に出る。この坂をすこし下った右側が「根津神社」だ。時節柄つつじが満開で「つつじ祭り」の真っ最中、多くの屋台が所狭しと軒を重ねて賑やかなことこの上もない。混雑を楽しみながら根津神社を出て、東京大学野球場を右に「おばけ階段」を上って弥生坂に出る。ここは弥生時代の名の起こりで有名な場所で、弥生式土器発掘ゆかりの地碑がある。

 そこから湯島に向かって暗闇坂【くらやみざか】を下り気味に歩をすすめると、そこが東京大学構内への入る裏門「弥生門」である。遠慮なく大学構内に入り安田講堂を尻目になおも進めば、そこが「三四郎池」である。

 夏目漱石の「三四郎」では三四郎がこの池を眺めているところに美禰子が通りかかる場面が有名だが、今は池も鬱蒼とした林に囲まれている。
その「三四郎」の中に、
 「三四郎がじっとして池の面【おもて】を見詰めていると、大きな木が、幾本となく底に映って、そのまた底に青い空が見える。三四郎はこの時電車よりも、東京よりも、日本よりも、遠くかつ遥な心持がした。しかししばらくすると、その心持のうちに薄雲のような淋しさが一面に広がって来た。そうして、野々村君の穴倉に入って、たった一人で座っているかと思われるほどな寂寞を覚えた」
とある。

 漱石の小説を思い返しながら三四郎池を後にした。この後、この東京文学散歩は泉鏡花の湯島天神へと続くのだが、長くなるので鴎外、漱石の二人に絞って、今回はこの辺でいったん打ち切りとする。


「楚囚之詩」物語
木村 勝紀
2007年4月25日

 明治時代前期の詩人にして評論家の北村透谷の名前をご存知の方は多いことでしょう。しかし、その著作を読んだという人は稀ではないでしょうか。

 北村透谷は、明治元年(1868年)に生まれて明治27年(1894年)に自殺するまでの僅か26年の生涯でした。北村透谷の手になる「楚囚之詩」という作品があります。内容は獄中の一政治犯の苦悩を描いたもので、原本の大きさはB6判大の横開き、仮綴じ28ページほどの貧相なものだそうです。

 この本は透谷の自費出版なので、定価の記載はないといいます。彼は本書が刊行された直後に、あまりに大胆すぎると自ら慙愧して断截させてしまったのです。ところが透谷が印刷終了の段階で廃棄処分にしたと思い込んでいた本書の一部が、すでに書店の店頭に出て購入した者があったらしいのです。
 何冊売れたのかが明らかでなく、その名声は高まる一方で、研究者、愛読者たちは幻の書物としての「楚囚之詩」に思いをいたしたとか。それが愛書家仲間の噂となり、「明治期最大の稀本」という評価に増幅されていきます。

 36年が経過します。

 早稲田大学の4年生村田平次郎は、本郷の古書即売展へ赴きます。それは昭和5年(1930年)の3月でした。彼は雑本の山を崩していましたが、ふと、その視線を一冊の薄っぺらな本の上に落します。

 「楚囚之詩」30銭。

 只みたいな値段です。彼はその価値を知っていました。
その瞬間、彼は感激のあまり頭にカーッと血がのぼりました。40年近くにわたって市場に一冊も伝わらないとされた、最大級の幻の名著が、いま彼の手中納まりました。

 その後、この「楚囚之詩」はもう2冊発見され、その3冊目がのちに「透谷全集」を編んだ勝本清一郎の手に入ります。名古屋の業者が四百円で仕入れものを、五百円で買ったといいます。五百円というのは、当時りっぱな玄関付きの家が買えたそうです。

 この書にまつわるドラマは延々と続きますが、そのうちの一冊は、国立国会図書館にはいります。村田平次郎氏もすでに鬼籍にはいり、その一世一代の戦利品は天理図書館に収まったそうです。

 世の中には希書や稀覯本【きこうぼん】を貴金属の如く珍重する蒐書家といわれる人々がいます。しかし、この物語のように宝物は皮肉にも素人が偶然見出すことがあるのですね。
 皆さん、ひとつ一攫千金を夢見て古本屋さんを覗きに行きませんか?


 昭和20年7月19日の思い出
木村 勝紀
2007年4月18日

 日本テレビ昼の番組に「今日は何の日?」というコーナーがあります。本日(4月18日)は昭和17年4月18日、米軍による東京初空襲の日だという話題でした。前年12月8日の真珠湾攻撃の大戦果に沸き立っていた東京市民が肝を冷やした日だというのです。

 ここからは番組を離れますが、この初空襲以降ミッドウェー海戦の大敗北を経て、戦況は日に日にジリ貧となり昭和20年3月の本格的な東京大空襲をはじめ、全国の主要都市はじゅうたん爆撃のため軒並み焼け野原となります。そして同年8月6日の広島、同8月9日の長崎の原爆でとどめを刺され、8月15日太平洋戦争は終わったのでした。

 私にも空襲にまつわる思い出があるのです。
 私たち一家は、当時父を東京に残して両親の故郷である福井に疎開していました。母と小さな子供4人です。私は当時末っ子の5歳4ヶ月でした。昭和20年7月19日の夜半、福井市は米軍爆撃機による大空襲を受けました。米軍のB29爆撃機120機の編隊が福井市に来襲、まず市外周辺部に照明弾を投下し、徐々に中心に向かって約9,500発の焼夷弾が市内に投下されました。焼夷弾は全市を猛火で襲い、防空壕に避難していた人々は熱気で蒸し焼きとなり、水を求めて福井城の堀や足羽川に飛び込んだ人々は折り重なって死んだといいます。福井市内は一面の焼け野原となり、全国最大の被災率といわれる95%もの市街焼失で壊滅し、死者は約1,600人にのぼったといわれます。私たちは市内から焼夷弾と猛火を避けるためふとんを頭から被り水をかけながら逃げ惑いました。あてどもなく田んぼのあぜ道をさ迷う内に5歳4ヶ月の私だけが途中ではぐれてしまいました。私は阿鼻叫喚の修羅場を一人で逃げ延びて、近在の農家の叔父さんの家にたどり着きました。小さな私ひとりを見失った母は、半狂乱で私を探したそうですが、会うこともならず他の子供たちを連れて兎に角叔父さんの所へ行ったそうです。そこに焼け焦げたジャガイモを与えられ黙々とかじっている私が居たのだそうです。年端もいかぬ子供が地図も知らぬ遠路をはるばる歩いて、何故母や兄弟と落ち合えたのか、不思議な出来事ではあったのでした。
 このエピソードは木村家では奇跡として語り告がれていましたが、今ではもう両親も兄弟たちもみんな結界を異にしてしまいました。